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大人の読書感想文 「宇宙人のいる教室」ロングセラーの秘密とは。

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1988年に出版。30年経った現在でも密かに話題の児童書、

「宇宙人のいる教室」

30年経った今でも、小中学校の課題図書に指定されている。

その超ロングセラーな秘密をひも解いちゃいます。

あらすじ(※ネタバレあり)

小学4年生テツヤの教室に転校してしてきたレオナは、とても風変わりな男の子。

動きが異常にゆっくりで鈍く、なぜか一人暮らし。

空気中の成分をスラスラと言えるのに、誰でも知っているようなこと、

例えば「ドレミの歌」は知らなかったりする。

そんな”風変わり”な行動が続くレオナ。とうとう毎日いじめられるようになってしまった。

そんな中、彼の”風変り”を「観察」していたテツヤはある日、見てしまう。

レオナの家にあるテレビゲームのカセットに、クラス全員の身上調査がインプットされているのを・・・

 

「地球を侵略しようとする宇宙人にちがいない!」

テツヤはピンときてしまった。

そしてレオナを見張ることを決意するのだが・・・

 

レオナを見張り続けても、どうもヤツは尻尾を出さない。

それどころか、花に感動したり、雨に触れて喜んでいる。

そんな姿を見ていたらしまいには、宇宙人だとかどうでもよくなってしまった。

そう、気づけばテツヤはレオナに惹かれていた。

そして、レオナの目を通して、目の前の当たり前に見えていた自然、その美しさや大切さに気がついていくのだった・・・

そんな二人のやりとりと、そのピュアな関係性が親子を変え、クラスを変え、奇跡を巻き起こす、感動のストーリー。

そして最後にはレオナの正体、あれほど体が重かった理由も明らかになっていく。

忘れてしまった何かを思い出せる、是非親子で読みたい物語がこの「宇宙人のいる教室」なんだ。

 

映画「美しき緑の星」の世界観

この小説を読んで、思い出した映画がある。

映画「美しき緑の星」だ。

1996年にフランスで作成されたが、封切り前に発禁になったという話題の映画。

宇宙人が地球に降り立ったら?!というストーリー。

「宇宙人のいる教室」とまさに同じシチュエーションだ。

「美しき緑の星」の住人は、まるでレオナのように、優しくて暖かい。

貨幣制度もなければ意地悪もない。そんな進化した文明に暮らしている人々が地球にやってきて、

ジェネレーションギャップならぬ、「プラネットギャップ」にてんやわんやしちゃう。

コミカルでシニカルな映画だ。

 

それでいて、宇宙に住む人々の様子も描かれているのがこの映画なんだけど。

その宇宙の人々の静寂な世界観が、

こんな理想のような人々の関係性が現実になったらいいのに!!

と思っちゃうところでもある。しかし、

・・・・実は、これは現実に存在している世界かもよ、というところ。

 

最近もフェルミのパラドックスの研究が進んだというニュースもあったわけだけど・・・

エイリアンは「最近」来ていないだけかも…新研究で指摘
9/28(土) 20:00配信

人類が住む天の川銀河では、さまざまな恒星系を超えて地球以外の文明が広がっている可能性があるとする新たな研究論文が発表された。

この研究は、地球外に住む知的生命体との接触の痕跡が見つかっていないことをめぐる「フェルミのパラドックス」に関して、新たな視点を提示するものだ。

出典元:BUSINESS INSIDER JAPAN

フェルミのパラドックスなんか論じるまでもなく、接触のエビデンスはビックリするほど残っているのだ。

ロズウェル事件しかり、最近の米海軍のUFO映像(UAP調査)を認めたニュースしかり。

地球人類よりも進歩した星をまたにかけるテクノロジーをもつ人々がいることは明らかなんだ。

そして、美しき緑の星のような、人々が群れで互いに助け合って生きてる人たちは大勢宇宙に暮らしていることも想像するに難くないんだ。

 

地球にもSP文明に近い文明は存在していた

地球以外の惑星には、進化した文明を持つ人々が大勢暮らしているが、実は地球にもそれに近い文明が存在していことがある。

人々が互いに助け合い、意地悪じゃない社会。

それは江戸、そして明治。

武士は刀を持ち歩いてるし、人は殺しあっていた時代だという認識する人は多いかもしれないが、

実は、侍は刀を抜くことは滅多になかったんだ。

刀を抜く時は自分も死ぬ覚悟で人を斬るときのみ。

その証拠に、当時、来日した外国人が、日本人の刀などの武器についての扱いについてこのように書いていてる。

「帯刀した者たちの間で流血事件が起きたと耳にするのは滅多になく、この国の人間の性来の善良さと礼儀正しさを存分に物語っている」

(E・スエンソン『江戸幕府滞在記』より。デンマーク人、フランス海軍士官として1866年来日)

 

「刀を使用することは、戦争のとき以外は厳しく禁じられている・・・ガニビルジスすなわち警察官は、刀のほか、把手のついた短い棒(十手)を持っている。これで抵抗する犯人が手にする武器をたたき落とすのである。槍その他の武器の先端は鞘におさまっている」

(ペーター・ベルンハルト・ヴィルヘルム・ハイネ『ハイネ世界周航日本への旅』より。ドイツ系アメリカ人。1853年ペリーとともに来日)

 

「正当防衛以外の場合でなければ、路上で何人も刀をぬけば、決まってこの上なく重い罪に問われるのである・・・槍の刃先、銃の銃口さえもが丁寧に鞘に包まれているのは、平和時に、なんなれと武器を人の目に曝すことを禁じている厳しい禁止命令のためなのである。敵国に遠征するときにしか鞘は外されないのである」(ルドルフ・リンダウ『スイス領事の見た幕末日本』より。プロシャ生まれの外交官。1861年から3度来日)

 

「行列はみな声を立てずに動いて行くが、身分の高い人の行列にあっては、前を行く先ぶれが『下にいろ』、つまり『膝まずけ』と叫ぶ。それと同時に全ての者が平伏するのである。
しかし、われわれが大名行列に何度も出会ったことがあるけれども、これは一度も見なかった習慣であった。民衆は恐れて道を避けるが、この権力者をさほど気にしていないのが常であった。われわれの見たところでは、大部分の者は平然と仕事をしていた。

(ドイツ人画家ベルク著か『オイレンブルク日本遠征記』1852年来日。オイレンブルク・駐日ドイツ公使)

これが歴史の事実。武士はチャンバラで人を斬りまくっていた、というのは時代劇の影響であり、現実とは異なるんだ。

また、当時はカースト制度のように「士農工商」で人々には格差があった、と窮屈なイメージを連想する人も多いだろう。

これについても、実は「士農工商」は上下での格差ではなく横並びの役割分担だったんだ。

それぞれの身分が、それぞれの役割を果たしている感覚で暮らしていたということだ。

100年前の日本の画像・映像を見て欲しい。

人々が皆暖かく笑っている。

また、来日した外国人は、このことについて以下のように語っている。

イザベラ・バードは1878(明治11)年、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北や北海道地方を馬で縦断した英国女性であるがその著「日本奥地紀行」は名著として評価が高い。山形の手の子という村の駅舎では、「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇を取り出し、丸々一時間も私を扇いでくれた。代金をたずねるといらないといい、何も受け取ろうとはしなかった。・・・私は彼らに、日本のことを覚えている限りあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心を打たれながら出発した」。

 

ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム、中国と歴訪していたが、「平和で争いのない日本の人々は、礼譲と優雅に満ちた気品ある民であった。街ゆく人々はだれかれとなく互いに挨拶を交わし、深々と身をかがめながら口元に微笑を絶やさない。田園を行けば、茶屋の娘も田圃の中の農夫もすれ違う旅人も、皆心から挨拶の言葉を掛けてくれる。その住民全ての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか。・・・地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ」。

 

「日本の女性が、世界の中で自分たちが一番虐待されていると思っているなどと想像してはいけない。それどころか、おそらく東洋で女性にこれほど多くの自由と社会的享楽とが与えられている国はないだろう。一夫多妻制は許されていない。また、われわれが知ってることのできるかぎりでは、女性の地位は東洋よりも、むしろ西洋で彼女たちが占めているところに近い。・・・・・これらの女性は隔離されることもなく、劇場にも、食事にも、遊山にも、また草花の展示会にさえも出かけ、思うままに振る舞うのである。彼女たちは水上の遊楽が大好きで、またギター(三味線のこと)に堪能である・・・女性たちは踊りも達者だということである」(ローレンス・オリファント『エルギン卿遣日使節録』イギリス公使館第一書記1858年来日)

 

「子供たちが男女を問わず、また全ての回想を通じて必ず初等学識を教えられるといっている。もっとも賤しい農夫でも教育を受けることが必要だという考えは、少なくとも、この程度まで行われているのである」(『エルギン卿遣日使節録』)

暖かく優しい人々が暮らしている姿がここには描かれているのだ。

私たち親世代の過ちは学び続けないことだ

古き良き時代、確かにあった欧米諸国をも驚かせた文化水準。

そして教育。

2度の世界大戦を経て、私たちはこれを失った。

大いなる時代の流れはあったのかもしれない。

だがしかし、そのもっとも大きな要因は私たち自身にあったことを忘れてはいけない。

そう。私たち親世代の過ちは「仕方がない」で諦めて、負の遺産をバケツリレーしてしまってきたこと。

多くの大人たちが「生き延びるためだから仕方がない」を次世代に伝え続けてしまったことだ。

私たちはまず、その負のバケツリレーをやめなくてはならない。

 

そして、この作品のレオナとテツヤみたいに、一人一人のぬくもりのバケツリレーをし始める必要がある。

そのぬくもりは連鎖する。

その肉体から、個々人、組織、国、そして文明へと。

それは歴史が証明してきたことだ。

「江戸・明治」や「美しき緑の星」のように、人々が助け合う社会を現実にするための一歩・・・・

それは、

学び続けること。

 

富国強兵を引きずった詰め込み型の633教育の限界を知り、江戸時代に広まった「寺子屋」教育へ。

学ぶことで人々の認識が代わり、認識が変わるとそれぞれが生み出すものが変わっていく。

その身体で学ぶことがスタートであることを覚えていてほしい。

AIシンギュラリティを迎える2039年に向けて、新時代の教育はもう始まっている。

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