触覚静電気と才能開花との関連性

こんにちは!オーシャンです!
本日は触覚静電気と才能開花との関連性について話していこうと思います!
触覚静電気が才能開花に関連するってどゆこと?
そもそも触覚静電気ってなんですか?!
皆さん、触覚と聞けば何を思い浮かべますか?目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、口(味覚)、皮膚(触覚)の五感ですか?痛い、冷たい、熱い、押されて圧を感じる等々、それらの痛覚や圧覚、五感の中でいわれている感覚の一つ(皮膚感覚)の触覚ではないんです。
じゃあ何なんですか?と聞かれた時にRSELではこのように定義しています。
RSELで提唱する触覚静電気とは、目耳鼻口触覚の五感ではなく、実は目耳鼻口その他の感覚器官は、触覚(触覚静電気)の一感によって束ねられた副次的感覚に過ぎず、全ては触覚(触覚静電気)の一感が束ねています。人体に動電気が流れると目耳鼻口その他全ての器官が損傷していないにも関わらず死んでしまうのは、触覚静電気によって束ねられていることの一つの証拠です。
そして触覚静電気により束ねている人体の法則を(内的秩序)と定義しています。
内的秩序?何ぞやだと思うので説明しますと、例えば内臓の動きやその他の感覚器官の全てを四六時中頭で考えて意識的に動かしたらどうなるか?
答えは、【明日には目を覚ますことなく冷たくなっていることでしょう。】
だって、頭で考えて心臓を動かしてますか?寝てる時に頭で考えて呼吸してますか?起きられたのは頭で考えたからですか?食べ物の分解をリアルタイムで頭で捉えられますか?トイレに行かなきゃと思えたキッカケは頭が先ですか?頭で考えてから臭いが鼻に付きますか?寒いな暑いなと感じる度にいちいち頭で考えてますか?全ての体の動きを頭だけで動かせますか?算出出来てますか?
そうなんです。僕らの頭では認識できない程の情報処理を人体の内的秩序(触覚静電気)は『今』も担ってくれているんです。触覚静電気を纏った人体の持つ働きを頭でやってくださいといわれたらゾッとしませんか?(僕は勘弁です。)
そしてこの触覚静電気の内的秩序は、僕たちがベイビーとして生まれてこれた理由とも繋がるんです。
僕たちはお母さんのお腹の中にいる時に頭で考えて『この栄養素が足りないからあれ食べて!』『今から目を作るから走らないで!』『今から骨作るから牛乳飲みまくってくんね?』とお願いしましたか?(してた方いたら教えてください)
そうです。そんなことをしなくても、言葉で伝えなくても、触覚静電気で伝わり、それが悪阻だったり母親がこの食べ物を無性に食べたくなったりという行動に繋がるわけです。
そうやって僕たちは生まれてきて、今もその触覚静電気の内的秩序に包まれて生きてるんです。(頭でっかちで忘れてしまっているけれど)
これらの例だけでも触覚静電気の秩序が、私たちが生きていくためにどれだけ膨大で複雑な働きを担っているかが分かる一面ではないでしょうか。
触覚静電気の内的秩序の認識は、意識と無意識の情報処理能力の秘密に繋がる話でもあります。実は実は、頭で考えて判断する意識より感覚器官すべてを統合した無意識(ここでは触覚静電気の内的秩序)の情報処理のスピードの方が、目が飛び出るくらい違うと言われています。
その差なんと『1000万倍!』
(人間の感覚器に入ってくる情報量を総合すると毎秒10億ビットにもなりますが、人間が意識して考えられるのは毎秒100ビットほど。具体的な数値はないにしろ、無意識的に触覚静電気が処理している体の働きから察するに妥当な意見でないでしょうか?!)
この話だけでも触覚静電気の内的秩序に沿った生き方をしてる人が、エネルギー効率抜群で何とな~く才があると云われてる人たち所謂天才なんじゃないか?!と考えられませんか?
逆にその秩序に沿わない人がエネルギー効率が悪くて頭でっかちな凡人と云われる人たちじゃないかと考えられません!?
そして実は最近、世間でも触覚に才能が開花する鍵があるのではと言われる様になりました。
同じ五感でも、視覚や聴覚は、「私」という主観(主体)が何かを感じ取る。触覚は、触れているのか触れられているのかがわからない。同時に両方が成立しているとも言える。人間中心の認知がなかなか難しい感覚なのである。
京都大学、教育学研究科の鈴木昌子教授が、「才」とは何か、五感の中でも特殊な「触覚」の重要性などについて語った。
「ピアニストが夢中になってピアノを弾いているときには、自分が弾いているのか、何者かが私をして奏でさせているのかがわからない」
こうした状態を「主客未分」「純粋経験」と呼んだが、「触覚」と似ている。
鈴木教授はもうひとつ、仏師の聞き取り調査の例を挙げた。「仏師は、彫るのではなく、『木の中におわす仏様が目に見える形でお出ましになるのを準備している』という感覚だそうです。これも純粋経験につながっていると思います。『木の声が聞けるかどうかが大事なんだ』という言葉が印象に残りました」
■才を見極める三つの観点
鈴木教授は最後に、才を見極める観点を三つ挙げた。
(1)才は場を得て花開く
(2)才は人格の衣を着て発現する
(3)才は愛でてこそ伸びる
才がいくらあっても、生かす場がなければ芽が出ない。適材適所だ。
「才」って何? 触覚から探る 京大・鈴木教授が講演
http://www.asahi.com/
これだけ聞くと触覚を愛でることで才のある人間になるのは分かったけど、じゃあどうすれば良いんですかと疑問が残りませんか?
ピアノ教室通ったことないし、大した躾もしてもらってないし、図工も万年評価1の俺に何が残っているんだろうか。そもそもそれを教えてくれる場所なんてそもそもないじゃないか!トホホ。。。
そうです。その通りです。結局何なのよ?触覚の何をどうすれば、どう愛でれば才能開花できんのよ!という初歩的な問題に戻っちまうんです。
そこには頭で考えれば考える程100%迷宮入りするからくりがあるからです。何故なら答えをざっくり言いますと、
【才能開花の鍵は頭ではなく、肚(はら)にある】からです。
これが頭では絶っっっっっっっっっ対に到達出来ない所謂天才の領域です。そして、RSELでは『下腹重心=丹田』に触覚静電気を集める事が才能開花の鍵であり文明開化への道、それを『方法論』ではなく『重心論』と 説いています。
触覚静電気の位置が重要ってどゆこと?
ここの概念がとても重要で、触覚静電気が『どこに集まっているか』で天才か凡才かの決定的な違いが出てしまうのです。
例えば、『人体』を『スマホ』に置き換え、触覚静電気が頭(頭重心)か肚(下腹重心)かに集まった場合の違いを捉えてみましょう。
先ずは頭重心スマホ。頭(頭重心)に触覚静電気が集まった状態は、全てのスマホの機能及びアプリを秩序もなく起動させっぱなしにしている状態であります。
そうした場合、そもそも電源の消費も早く直ぐ電源が切れてしまう。使いたいときに使えないというとてもエネルギー効率の悪い状態です。
緊急時にはあら大変。救急車を呼ぶことさえ出来ません。これではどれだけ沢山のアプリや機能がスマホに備わっていても全く役に立ちませんよね。
では、肚(下腹重心)に触覚静電気を集めた状態の肚(下腹重心)スマホはどうなるのか?
答えは単純で、『今』その瞬間どのアプリを起動させれば良いか、どの機能を使うべきか明確になっている状態です。
そのため、不必要な起動はせずに自然と省エネ状態になります。また必要な時には、必要とする機能やアプリを瞬時に使えます。
ここぞという緊急時でも集中して使うべき機能をキチンと使える。これだけ見ても単純にエネルギー効率がめちゃくちゃ良いということは分かると思います。そう、天才はなるべくしてなるのです。
人体も同様、スマホの様に、いや、スマホ以上に無限の可能性と秩序を秘めています。事実としてスマートフォンも、私たちの持つこの『人体』から生みみ出されたものですから。スマートフォンも含め私たちが凄い凄いといっている道具の全てはこの人体から、そしてその周りの関係性の縁から生み出されています。
『道具が凄いのではなく、人体が凄かったんです』
RSELではこれを人体賛美と提唱しています。
この人体はただのたんぱく質の肉の塊ではないです。『触覚静電気』を纏った私たち一人一人の人体には、スマートフォン以上の何かを生み出せる、それこそ文明を何個も創り出す天才性が眠っています。触覚静電気の内的秩序を纏った人体を持っている限り、誰1人例外ではありません。
でも今の僕らはどうでしょうか?常に頭でっかちで効率の悪いスマホの端末の様に生きていて、為すべきことも為さず、どうでもいいアプリや機能を使いたい様に使っています。これでは自分のことで精一杯で誰かの為に何かを生み出せませんよね。
生み出せないどころか、常にエネルギーが足りないが故に、他の人からエネルギーを奪っていませんか?生み出さないくせに他人のエネルギーだけは消費するって嫌なやつですよね?(人のために使って電池が減っちゃったのならまだしも、どうでもいいYouTube動画を見てて無くなったから貸しては貸す気も失せますね。うん。)
エネルギーを取り合うために生まれてきたんですかね僕たちは。触覚と才能開花の話をしていましたが、それどころではなくなってしまいました。そのくらい僕たちの日常はどうでもいいことに費やされているんです。そんな毎日を繰り返してたら、何のために生きてるのかさえ分からなくなっちゃいますよね。そして何が大切かも忘れてしまいますよね。
『そして気づいたら電池切れ』
『僕たちは忘れるために生きてるのでしょうか?』
僕たちの間違ったスマホ(道具)の使い方は、僕たち触覚静電気を纏った人体の間違った扱い方と重なっていています。
だからしょうがないは通用しないです。仕方なくないんです。個人の人格だったり、心だったり、魂だったり、そんな曖昧なものではないからです。人体です。この記事を見ているあなたも、誰ひとりこの体から出られないという現実からは逃れられません。
でも、変えていけます。人体は在るからです
触覚静電気を纏った人体という誰もが持っているものであるから、しょうがあります。
《元気》
だから肚に問いかけましょう。何のために生きてるのか。何のために死んでいくのか。
何が醜く、何が美しいのか。
自らの由縁を知り、何を為すべきか。
そのためには今一度、触覚静電気を下腹に落とす必要があります。