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「懐疑を乗り越えた哲学者」カント VS 「西洋近代哲学の完成者」ヘーゲル【哲学バトル】五回戦

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子供の頃から成績優秀、生徒会長もこなし、いつしか板についていた「優等生」キャラ。しかし、実のところはただの八方美人。そんなペルソナ=仮面を付けることで、自分の弱さを隠してきた。
もう自分のキモチをごまかしたくはない!肚の底から湧き出る感覚をもっと素直に表現していきたい!将来が保証されたエリートコースを辞退し、売れない作家見習いとしての道を歩みはじめる。小説を執筆しながら、当ブログでは、主に哲学などについて書いていく。

◎ ボディフィギュアタイプ
「猫背くるみ」の隠れ「いかり」型

カントの登場によって、哲学にとってはコペルニクス的転回が起こった。
なぜなら、これまで哲学者は真理を、生きとし生けるものをあまねく貫く普遍的なモノ=固定的絶対的な真理として追い求めていた節があるからだ。
しかし、カントによって、人は人類共通の形式しか認識できないのだから、生きとし生けるものをあまねく貫く普遍的なモノ=真理はあるかもしれないが、それ自体が何かを固定化絶対化完全化することに意味がないことが見えてきた。
だから、真理とは、人間としての真理であり「人間によって規定されるもの」と定義されたのだ。
真理は人によって可変的であり、ゆらいだものとなっていった。

そしてカントにはやり残したことがある。
その人間としての真理を導く方法の確立だ。
以降、哲人たちの闘いは、人間としての真理をどう追い求めるか?が大きな焦点となってくる。

そんな中、先陣を切るように現れた漢がいる・・・

青コーナーより挑戦者ヘーゲル選手の入場ですッッ!

18世紀後半。
根強い身分制度や都市有力者による寡頭支配。
一方で、広まる啓蒙主義。
現体制への不満が爆発し、フランス革命やドイツではプロイセン改革など、力技の大規模な体制転覆が多く起こる、激動の時代であった。

ヘーゲルはそんな時代のドイツに生まれた。
幼少期、プロテスタントとしての堅実な人間性や考え方を母との暮らしから受け継ぎ、また尊敬する恩師レフラー先生からは学問の素晴らしさ受け継いだ。
そういった周囲の大人の影響を受けながら、8歳のときシェイクスピア全集を恩師レフラー先生からもらい読破するなど、大の読書家となっていく。
後に、若くしてその母も恩師も亡くしてしまうのだが、二人から受け継いだヘーゲルの勉学に臨む意欲は凄まじく、15歳ごろから歴史や法律、道徳などを広く学び、読んだ本や学んだことを事細かく要約し、抜粋し、自分の考え方や意見、反省点を日記としてノートにまとめ始める。早くから大学での研究に適う学問的態度を身に着けていたと言われている。
また修辞学に関しても言葉の歴史的由来や用法を考察し、適切な引用をおこなう非凡な才覚を持っていた。
が、同時に話下手いわゆるコミュ障でもあったようだ。
そういった側面がヘーゲルをより読書・勉学の道に駆り立てていく。

特にヘーゲルが好んでいたのがギリシャ悲劇。


それは時代の荒波とも共鳴し、彼の根底に残り続けた。
ヘーゲルは生涯、人の世の苦悩と葛藤を描いた悲壮な悲劇の世界を愛し続けたのだ。
ヘーゲルの根底に残るギリシャ悲劇は、楽天的な合理主義を退け、人間(個人)と人間(個人)の衝突、種族(社会)と種族(社会)の対立に着目し、世界における避けがたい矛盾分裂、そして闘争を主題として考察する基本的な学問路線を形成するものとなっていた。
その学問路線は歴史にも向けられ、ヘーゲルにとっての歴史は過去の人物や事件の意義を考察し、歴史の底流に流れる法則性を考察する歴史哲学へと高められていくのだった。

そしてヘーゲルはカント哲学と出会う。

世界に遍く法則性を数多く明示したカント哲学。
ヘーゲルの人生背景はカント哲学と大いに共鳴した。
ヘーゲルはカント哲学に強い影響を受け、青年時代はカント哲学を実践的かつ社会的な方法で完成させようと試みていく。

だが、その中でヘーゲルは一つの壁に直面した。
母から受け継いだプロテスタント。
キリスト教とカント哲学の両立問題である。
青年期のヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立問題に関心を集中させていた。

ヘーゲルとキリスト教

ヘーゲルはキリスト教と向き合い続けた。
そしてキリスト教の問題点を「実定性」という言葉で明示した。
彼の著書「キリスト教の実定性」では人間の徳と愛からなる理想を説いたイエスの生きた言葉が、宗教制度の発達と共に実体を失い教条的(事実を無視した原理原則を杓子定規に適用する)な姿を変えた点に着目している。
どうやら当初はキリスト教の理念と現実を分離させ宗教理念の純化を目指すことを意図して執筆を始めたらしいが、結果的に人間社会の底流に存在する深層に切り込むこととなったのだ。
すなわち、批判的、解放的、流動的なものとして始まったものが、目指す方向とは正反対なものに変化(絶対化、固定化、完全情報化)していく傾向が存在し、人間社会は精神的硬直から来る絶えざる矛盾と葛藤を抱え込んでいるということだ。
ヘーゲルはキリスト教の考察を通じて彼の思想の中核部分を成す「疎外」という問題を明るみにしたのだ。


ここで言う「疎外」とは人間が作ったもの(モノ・お金・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。
またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。
そうなのだ、人間の尊厳を謳った法や社会制度も人々が思考停止し、当たり前のものとして「こなし」始めれば、結果的に人類を縛る足枷となることをヘーゲルは指摘したのだった。
以後も、キリスト教とヨーロッパ社会の歴史はヘーゲルの中心的な関心であり続け、精神の自由を目指して展開される進歩と、その反動から織なされる歴史哲学へと大成していくこととなる。

ヘーゲル弁証法

その後、ヘーゲルは、元来、問答・対話の術を意味する弁証法について、思考及び存在の発展論理として積極的な意味付けを行なうことで大成化した。
その意味付けの根流には先ほども述べたヘーゲルの「世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題とした考察」が脈々と流れている。

彼によれば、我々の認識のみならず、全ての事物の発展は、単純化させると、矛盾を契機とするある命題と、それと矛盾するもしくはそれを否定する反対の命題、そしてそれらを本質的に統合した命題の三つからなる正・反・合の三段階の生成を実現する三肢構造として捉えられる。
正すなわち「定立」(テーゼ)は、あるひとつの立場を直接的に肯定する段階であり、矛盾・対立についての自覚はない。
そして、反すなわち「反定立」(アンチテーゼ)において、あるひとつの立場が否定され、ふたつの立場が矛盾・対立する段階となる。
更に「綜合」(シンテーゼ)において、相反する立場を否定しつつも互いに生かし、両者をより高い次元のレベルへと発展・収斂するべく「止揚」(アウフヘーベンが生じるとする論法である。

ヘーゲルが見つけた法則、それは有限なものが内在する諸矛盾のもとに対立・葛藤を生み出し、限界性を「止揚」(アウフヘーベン)することで、より高次なものへ発展する思考および存在を貫く運動法則である。
「発展」というものは、諸要素の矛盾の闘争を源泉として、量的変化に止まらず質的向上を伴うことでおこなわれるのだ。

ヘーゲルは述べている。

「矛盾はあらゆる運動と生命性の根源である。あるものはそのうちに矛盾をもつかぎりにおいてのみ運動し、そのかぎりにおいてのみものを突き動かし、また活動しようとする性質をもっている」

矛盾という一見すると苦しみや痛みにしか見えない。
だがそれこそが発展の源泉であることをヘーゲルは見抜いた。
痛みを愛す」それこそ生命力なのだ。

ここに、世界の本質は矛盾を内在させつつも、それを克服しようとして自己運動する「躍動的生命」とされることで、これまでの教条的で、静止的(固定的)な世界観はヘーゲルの弁証法によって力動的なものに変えられていくこととなるのだった!

ヘーゲルの言う闘争

「より良くなるためには闘争が必要だ!」ということは一般的にも言われることだ。
しかし、それを言葉通り受け取るとどうしても勘違いが生じやすい。
ココで誤解して欲しくないのはヘーゲルの言う闘争は別に相手を叩きのめすことを示している訳ではないということだ。
つまり、二つのものを闘わせて、優れた方が残るという論調ではないことを理解して欲しい。
二つのもの(=対=二極性)があるからこそ、常に第3極が現れる可能性があり、むしろその新しいものの誕生(アウフヘーベン)を目指すための闘争であるのだ。
ぶつけ合うというよりも交ざり合うためのもの。お互いが機能し合うためのもの。

そして二つのもの(=対=二極性)が機能し合って新しい何かを生み出していくという現象は法則である。

DNAも2重螺旋、対構造である。互いに機能し合って人体をデザインする。
人類もまた男と女、対構造である。互いに機能し合って子を授かり、育む。
星だって他の星と影響し合い、共通重力を生み回転して、この宇宙を形成するエネルギーを生み出し繁栄する。

対=二極性の法則と、三位三体の法則はこの宇宙に遍く流れ。
この流れに沿って人類は、世界は、そして宇宙は形成され繁栄していく。

ヘーゲルはそんな景色を見つめながら、人類が、そしてこの世界がより良く繁栄することを願っていたのだろう。

弁証法的実践のために

弁証法的実践(二極性、三位三体の法則に則る)ために必要なことが何なのか?
それは互いに分かり合い相互に引き出し合うことだ。
当たり前過ぎて拍子抜けする?
いやいや、その当たり前が僕らには思いのほか難しいのである。

例えば、


左がある。右がある。
左と右があるから中心が生まれる。
中心は左と右のどちらでもないが、両方の運動があって初めて成立する意味で、どちらをも含んでいる。

だからこそ中心を生むためには、両方の運動がなくてはならない。
左は左の運動を、右は右の運動を。
そうして生まれる均衡(バランス)こそ、中心。
当たり前のように聞こえるだろうか?

しかし、その当たり前すら僕らはできていないのだ。
ご自身の人体の扱いを思い返して欲しい。
左と右を同じように扱ってはいないかい?
そもそも左と右の違いを感じられてすらいないのでは!?

まずは左を左と理解し、右を右と理解する。
区別をする。
そして左と右を同じように扱わない。
差別でなく区別だ。
右の方が扱いやすいから、右優位だから、と言って差別して、右ばっかり使うと、カラダは歪んでくる。
差別は歪みを生む。
違いを分かったうえで、どちらかが優れていて、どちらかが駆逐され片方を生かすべきだという差別には陥ってはいけないのだ。

政治だってそうである。


左翼が正しい、右翼が正しいと差別し合い、争うだけだから何も生まれていない。
左翼と右翼の違いを分かりながら、どちらでもあってどちらでもないものを生み出す。
二極の対を踏まえ、その矛盾を矛盾なく扱うアウフヘーベンが必要だ。
それができないから、いつまで経っても右か左で歪むを繰り返す堂々巡り。
何も生まれない無限ループ
ゼロサムゲームを超えられない。

男と女、人の営みも同じ。


互いに分かり合い、交じり合うから、子を授かり、種族は繁栄する。
区別でなく差別をして、互いの機能を無視して扱ったらどうなる?
女性を男社会の土俵で語るイマイチ的を射ない男女平等で互いに苦しくなったりしているでしょ。
互いの本来の違いをわかろうとしないから、一方向な「こうしておけばいいでしょ」感の男性像、女性像でフェミニズムに傾倒したりするでしょ。
その怠慢で繁栄したのは頭の世界であり「偶像」。
「偶像」の擦り合い。
本質的な違いを無視した、そして身体を無視した、頭で作り上げた気味の悪い同意で、大した発展もなく、不健康に同じところをグルグルと回り続け、勝手に苦しんでいるのが現代人。

抜け出すためには、学ぶしかないのだ。
違いを学ぼう。差別でなく区別をしよう。「差」をとることこそ悟りの道。
違うことは悪いことじゃない。
違うことで葛藤や矛盾は生まれるだろう。
だがしかし、その違いの認識、相互理解、その分かち合いが、引き出しあいが、新しい何かを生む。
違い、葛藤、矛盾は生命力そのものなのだ。

一現代人として、今こそ「二極性」「三位三体」の法則を学ぼう。
踏まえて、弁えて証を残す。弁証法的生き方を実践したいものですね。

ということで今回の勝者は・・・・
と、勝どきをあげるのはとても無粋な感じがするので、控えようと思います(笑)
バトルとは対決。
哲学バトルでは対によって決した(定まった)もの、「法則」をこれからも文として明らかにしていきたい。

そして次回は!

ヘーゲルに異を訴える漢の登場だッッ!
「西洋近代哲学の完成者」ヘーゲル VS 「実存主義の祖」キルケゴール
をお送りします。

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