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「神をも疑う哲学者」ヒューム VS「懐疑を乗り越えた哲学者」カント【哲学バトル】四回戦

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子供の頃から成績優秀、生徒会長もこなし、いつしか板についていた「優等生」キャラ。しかし、実のところはただの八方美人。そんなペルソナ=仮面を付けることで、自分の弱さを隠してきた。
もう自分のキモチをごまかしたくはない!肚の底から湧き出る感覚をもっと素直に表現していきたい!将来が保証されたエリートコースを辞退し、売れない作家見習いとしての道を歩みはじめる。小説を執筆しながら、当ブログでは、主に哲学などについて書いていく。

◎ ボディフィギュアタイプ
「猫背くるみ」の隠れ「いかり」型

前回、徹底した懐疑論にて、とうとう、神という全知全能の存在を木端微塵に粉砕したヒューム。
まさに快挙である!

だがその懐疑の徹底もやはり暴走を始めるのであった・・・

懐疑のその先へ・・・

ヒュームの暴走の始まり、それは科学(因果律)への疑いである。
彼は言った。

科学法則も経験上の産物にすぎず、現実世界とは一致しているかどうか。それすらも疑わしい

つまり、人は「ある状態Aが起こったとき、ある状態Bが起こる」という経験を繰り返しているうちに、「状態A⇒状態Bが必ず起こる法則が宇宙にあるのだ」と思いこんだに過ぎない。
すなわち、科学という学問はその経験上の思い込みを絶対化しているに過ぎない!と主張したのだった。

確かにあらゆるものが影響(回転)し合っているこの世界で「絶対」はないだろう。
だがしかし、だがしかしである。
懐疑するだけでは何も始まらない。
現代の評論家や政治家をみてもそうだろう。
「一切を疑う」という理論武装をするだけでは、発展的な仮説を生産できず、検証もできない。
そんなの無責任であるし、どこか思考停止している。
殊に哲学に関して言えば「真理などない」あるいは「あったとしても人間には真理を知り得ない」とどこか高を括ってしまっている。
そんなもの哲学者としての在り方ではない!
徹底的な懐疑をしながらも、その懐疑をはねのけるようなより優れた「真理」を見つけ出していくことが重要なのだ!

その時一人の漢が現れるのであった・・・

青コーナーより挑戦者カント選手の入場ですッッ!

カントはドイツの哲学者であり、大学の哲学教授であった。
学生の頃から超真面目で、時間に正確で、いつも決まった時間に散歩をしたといわれている。
あまりに正確な時間に散歩をするので、近所の人はカントが通った時に時計の狂いを直したと言われるほどだった。
そんな彼の関心は、自然の真理を追い求める自然哲学にむかっていた。
特にニュートンの自然哲学に関心をもち、『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いていた。
そして、自然哲学では特に「星雲による太陽系成立」について関心を示した。
その分野おいて彼は銀河系が「多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体である」と正しく推論していたりもする。
そんな背景から、カントは【自然科学と幾何学の研究に支えられた経験】を重視し、そのような経験が知性の営みとして創り上げる「構造」そのものに興味を示し探求し始めたのだった。

そして、気が付けばカントは大学の哲学教授になっていた。
もともとカントはデカルトと同じ合理主義者であり、人間は理性を十分に働かせれば真理に到達できるはずだと「素朴」に考えていた。
だが、職業哲学者をやっているうちに彼は気づいた。
甘かったのだ。
特にヒュームの哲学、懐疑論との出会いが彼に衝撃を与える。

徹底的な懐疑。そこまでやるのか・・・私はまだまだ甘かった!

ヒュームの徹底した優れた懐疑論に哲人としての己の未熟さを感じたのだった。
このままじゃいられない。私も真理を徹底的に突き詰めてやる!
ヒュームの存在がカントを変えたのだ!
そして、カントはヒュームという巨頭、「懐疑論」に立ち向かうことを決心する。

懐疑論に対する疑問

懐疑論、ヒュームの主張は、
「すべての知識や概念は、人間が【それぞれの経験】から作り出したものに過ぎない」
という内容であった。
それはとても説得力のある説のように聞こえる。
しかしカントはそこにこそ疑問を感じたのだ。

「だとすると、どうして数学や論理学など多くの
【人間同士で通じ合える学問】
が存在しうるのだ?」

ホントウにすべての知識や概念が人間の経験だけに基づくものならば、人それぞれ異なった学問体系があってもいいはずである。
だって、全く同じ体験をしているような人間なんていないじゃないか!?
そうやって、違う経験をしていても同じような結論にいたるものはいくつも存在するのである。
カントはそこにこそヒュームの懐疑論を乗り越えるカギがあると考えたのだった。

「ヒュームさんの言う通り、人間は経験から知識を得ている。だが、その経験の受け取り方には人間としての特有の形式があるように思える。経験だけで人間は語れないッッ!」

そう、カントは経験だけでなく、何らかの人間同士で共通しているものがあり、我々は共通認識をしているはず。その共通性の正体は一体何なのかを問いかけたのだった。

認識論~人類共通の形式を説く~


カントは思索にふける中、あることに気が付いた!

「人間の認識能力には『感性』と『悟性』の二種の認識形式がある」

カントによれば、人間の認識能力には感性「悟性」の二種の認識形式があるとされる。
「感性」はモノ自体に触発されて直観による表象であり、
「悟性」は感性的所与を総合的に統一して概念を構成し、対象を認識する能力としている。
つまり、人は何か物事が生じた時、直感的な第一次反応があり、それを判断・理解して対象を認識・経験を積み重ねていく。
そのような経験の仕方に共通性があることを見抜いたのだ!

そしてさらに、その共通性を追求した結果を次のように述べた。

「人間は何かをみるときには、必ず『空間的』『時間的』にそれを見ている」

我々は水であれ、ペンであれ、【何かを見る】という経験をするとき、必ず、
「どこかの空間の、どこかの時間のモノ」として見ているはずである。
逆に言えば「どの空間にもないモノ」あるいは「どの時間にもないモノ」というものを経験できない。
すなわち、我々人間にとって「空間上の場所を占めないモノ」「時間上(過去-現在-未来)のどこの時刻にもないモノ」などというものはありえないのだ。
そういった事情は、どの国、どの時代の人であろうとみな同じく共通していることである。

懐疑論の限界の説破!!

では、なぜ同じなのだろうか?
カントはそれを先天的なものだといった。
カントにしてみれば「そういう構造(デザイン)を持って生まれてきたからだ」というのが理由だ。
人間はその構造上、神経を通じてやってくる刺激を「空間的」「時間的」な情報として
解釈するようにできている。
そういう構造は人間という「種」として生まれつき、先天的なものであり、
つまり【経験の受け取り方の形式】の共通性が、【経験内容の違い】を超えた人間生来のものとして持つからこそ、数学、科学などの「人類で共有可能な学問」が成り立つのだと説いたのだ!

この瞬間、懐疑の果てに、

「人間の概念はすべて経験に基づいており、経験なんて人それぞれなんだから、人類で共有できる概念なんてない」

という結論に至った、ヒュームの憂いを、

「いいや、そんなことはないですよ!経験の内容は人それぞれかもしれないが、経験の受け取り方には人類共通の一定の形式がある。その共通の形式の範囲内では、みんなが合意できる概念が作り出せるということだ!したがって人間としての普遍的な真理、学問を打ち立てることは可能なんですよ!」

と、カントは乗り越えたのであった!

「あぁ・・・そうか、そうだったか。ありがとう。カント君」

ということで、勝者は…

「懐疑を乗り越えた哲学者」カント選手だぁああああっっ!!


ウオォォォォォーーーーーーッッ!!!!!!!(大歓声)

早くも勝負は決したが、まだまだ続く…

「モノ自体」と「人の観測」

カントの人と世界の関係に対する追求はこれだけでは終わらない。
カントは後にこう説いてもいる。

「人間は現象界に属するだけでなく叡智界にも属する人格としても考えられ、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、モノ自体の秩序である叡智界における因果性の法則にも従うべきことが論じられる。その物自体の叡智的秩序を支配する法則を、人格としての人間が従うべき道徳法則として提出する。」

ここでカントは、人類には共通の法則があり、また人間は物理的な因果だけでなく、目に見えない因果も含めたあらゆる因果性の中で中継地的に存在することを説いた。

そして見えない因果を、何度も「モノ自体」として説明する。

ここで言う「モノ自体」とは人間共通の形式によって経験される前の「モノ」のことである。
そもそもであるが、我々人間が「ここに存在している」と思い込んでいる水やペンなどの「モノ」は【人間によって経験される前の世界】から、先ほどの人間共通の形式で変換されて映し出された後の「モノ」に過ぎないのだ。

それに気づいたカントはこう述べた、

「人間はモノ自体に到達できない」

生きとし生けるものをあまねく貫く普遍的なモノ=真理があるかもしれないが、それ自体を捉えるわけではないのだ。
だがそのモノ自体を捉えられないことは、決して悲観的なものではない。
それは、そのモノ自体の到達を目指すことにはあまり意味がないことを示しており、またもう一つの真実を示している。
それは、現実として表れるこの3D世界は、人間共通の形式を通して表出し、つまりは人間の観測の影響を受けることを示しているのだ。

このことは現代では量子力学の世界において証明されているのであるが、

カントは、量子物理学の学問体系がない時代に、その法則に気づいていたようである。
人はあまねく回転情報の中に生き、回転自体にはなれないが、因果性の法則のもと、あらゆる可能性を含んで存在している。
そうして、その観測によってこの世界に影響を及ぼし、この文明を創っている。

そうであるなら、やはり人にはこの世界を良くしていく責任があるのだ。
僕らは今この瞬間もその観測でこの世界へ影響を与え、文明を創っているのだから。
誰一人例外なくその当事者であることを忘れてはいけない。

ランダム性(偶然論)を乗り越える


また、カントが素晴らしかったのは、人類には共通の法則があり、また人間は物理的な因果だけでなく、目に見えない因果も含めたあらゆる因果性の中で中継地的に存在することを説いたことで、今まで懐疑論者が陥っていたランダム性(偶然論)を論破したことである。

ランダム性(偶然論)は人を退廃させるのだ。

例えば、人類に法則などなく、共通性などないとする「人それぞれですよ」感=ランダム性の肯定は、良いことをしようが、悪いことをしようが、その先はランダムでわからないのだから、すべてが無駄になると捉えられ、良いことをしても意味がないとする「道徳否定論」を肯定してしまう。

さらに、良いことをしようが、悪いことをしようが、その先はランダムでわからないのだから、快楽的に生きた方がお得であり、善行など価値がないとする「完全唯物論」にも陥りやすくなる。

叡智であろうが無知であろうが、多角的であろうが偽善であろうが、ただ人生はランダムにぬくもりに囲まれ、ランダムに残虐性に囲まれるのが真実だとしたら【これほど人間を悪魔的に退廃させる答え(教育)】はないのだ。
つまりランダム性(偶然論)は人の学ぶ意欲を奪い、人を堕落の道に誘う。
同じようにランダム性を導く懐疑論はモノスゴク危うい教えであり、以前述べた相対主義も同じような危険性をはらんでいる。

カントはその危険性に警笛を鳴らせた人物でもあるのだ。
だからこそ、最後には道徳的に生きることにも触れている。
醜い因からは悪い果が(醜因悪果)。
美しい因からは善い果が(美因善果)。
この法則自因自果」を認知するなら、人は美しく善く生きようとする意欲が生まれる。
そう想うからこそ、人は手を取り合い、感じ合い、学び合い、教え合い、働き合おうとするのだ。
それは記憶の連鎖=時空の循環を巻き起こす。
そうして僕らはこの世界を創っていくのだ。

クソ真面目で、難しい言葉ばかり並べ立ててしまう不器用なカントであったが、彼はそうしてただ、

「人として生まれたのなら美しく生きようぜ!」

と伝えたかったのかもしれない。
それがあの真面目さの原因でもあるのだろう。

以上で、第4回戦を閉幕いたします。

そして次回は!

カントの後を引き継いだ漢たちの闘いが始まる!
「懐疑を乗り越えた哲学者」カント VS 「西洋近代哲学の完成者」ヘーゲル
をお送りします。

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