「偉大なる近代哲学の父」デカルト VS 「神をも疑う哲学者」ヒューム【哲学バトル】三回戦

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子供の頃から成績優秀、生徒会長もこなし、いつしか板についていた「優等生」キャラ。しかし、実のところはただの八方美人。そんなペルソナ=仮面を付けることで、自分の弱さを隠してきた。
もう自分のキモチをごまかしたくはない!肚の底から湧き出る感覚をもっと素直に表現していきたい!将来が保証されたエリートコースを辞退し、売れない作家見習いとしての道を歩みはじめる。小説を執筆しながら、当ブログでは、主に哲学などについて書いていく。

◎ ボディフィギュアタイプ
「猫背くるみ」の隠れ「いかり」型

古代ギリシアを舞台に展開された哲学バトル!
ここで一度、時を進めてみよう。
哲学の始まりの時代である古代から、
中世を経て近代へ…
中世「信仰を重視する時代」から、
ルネサンス、宗教改革が起こり、
「理性を重視する時代」への転換が始まる。

理性の時代の始まり

時は17世紀。
それまでの哲学と言えば、
様々な哲学者が、
「俺はこう思う!」
「いやいや、私はこう思う!」
と自分勝手に主張し、
○○主義、○○派、○○説を乱立させた。

哲学というものが、
統一的な学問として成り立つことはなかった。

その裏には中世における、信仰の時代、
信じるという名の思考停止と自己解釈の影響が大きかったに違いない。
人々は「神」という「偶像」を立ち上げ、
それぞれがそれぞれの「偶像」を信仰し、
分離し、真理を探究することを、
またしても止めてしまっていたのだ。
そうした哲学暗黒の時代は1500年程続いた。

だがしかし、ルネサンス(古代の栄光の復活運動)、宗教改革を経て、
人類は自らの「理性」の素晴らしさを見返したのである。
そして人の理性への賞賛は、「科学」や「数学」の発展とともにあった。
今回は特に「数学」というものに触れておきたい。

数学とは?

数学のありふれた定義としては、
「数および図形についての学問」である。
哲学者プラトンは自らの設立した学園「アカデメイア」の入り口に

「幾何学を知らざるもの、この門をたたくべからず」

と書いたほどで、自分自身の努力で習得すべき、自ら考える力を育てること、正しく考えるためのトレーニングとして数学、特に幾何学が大切にされた。

数学の成り立ちを考えると、
「最初に公理と呼ばれる絶対的に正しいとする基礎的な命題をいくつか仮定し、
そこから論理的な手続きで定理(公理の組み合わせから導かれる新しい命題)を見つけ出していく学問」となる。

例えば僕たちが学校で習った、


「三角形の内角の和は180度」という定理も、
「平行線は交わらない」「すべての直角は等しい」
といったいくつかの簡単な公理を出発点として導き出されている。
そしてこの定理をもとにして、さらに別の定理が導き出されていき、出来上がるのが数学体系なのだ!

簡単に言うと、

「すべての定理は公理をもとにできている」

そして重要なのは、数学はこの公理を最初に定めてしまえば、あとは「人それぞれ」によらず、誰もが同じ結論にいたるということ。

この数学的な体系を哲学に応用し、「真理とは何か?」を探究しようとする漢が現れる…
これを境に、人々はまた「理性」を用いて「ホントウ」に立ち向かうのであった…

赤コーナーよりデカルト選手の入場ですッッ!

近代哲学の偉大なる父デカルト。
彼は哲学者として有名であるが、何を隠そう、「数学者」なのである。

皆さんもご存知の、
「X軸、Y軸の二次元の座標系」

あれも実は、「デカルト座標」といってデカルトが生み出したものなのだ!

そんなデカルト先生。
乱立する哲学に数学的な体系を用い、誰も非の打ちどころのない真理の体系を打ち立てようという野心的な挑戦を試みたッッ!

そのためには体系のスタート地点、公理となる第一原理を突き止めなくてはならない!
しかもその公理は極めて慎重に設定する必要がある!
なぜならその公理が間違ってしまえば、すべての定理、すなわち打ち立てた真理の体系のすべてが間違いであるということになってしまうからだ!

「本当に確実で、誰もが認めざるを得ない真理・・・」
そんなものどうすれば見つかるだろうか・・・
デカルト先生はそれを必死に探した。

そして、その時に用いた手段が、

「あらゆるものを疑う」

これである。

デカルト先生は思ったのだ。

「疑っても疑っても疑いきれないモノ」それこそ真理だッッ!!

さぁデカルト先生が疑い始める。

果てしない疑いの先に…

彼はこの世のあらゆるものを疑った。
疑って疑って疑って疑って疑って疑いまくり、目の前の現実すらも疑った。

目の前のこのリンゴ。
これは果たして真実だろうか?
いやいや実は夢を見ているだけで、リンゴなんか全然ないのかもしれない。
だとするなら、何を見ようとそれが真実とは限らない。

私の愛する数学。
それらは誰もが正しいと思っている。
それは本当に正しいのか?
私たちは夢を見るとき論理的におかしいことが起きても、それに気づけないではないか。
それと同じように数学が正しいと思うのは勘違いかもしれない。

あれも疑わしい。これも疑わしい。
もはや何が正しいのか?
疑いの迷宮へとデカルト先生は入り込む!
ちょっと危険な香りがするぞ・・・
だが諦めない!さらに踏み込む!

悪意のある悪霊だ!
人間に幻影を見せて嘲笑っている悪意のある超自然的な存在が、「これが真理だよー、真実だよー」って囁いているだけかもしれない!

おおおぉぉぉっっとぁぁ!デカルト先生それはさすがに暴走ではないかッッ!?
そこまで疑ってしまったら、数学も論理もクソもない!
全くの暴挙である!

そしてデカルト先生はそのオーバーヒートした脳で一筋の光をみつける・・・

ハァハァ、、我々の認識はすべてウソかもしれない・・・
そしてあらゆるものを疑うことができてしまう・・・
でも・・・
この世のすべてを疑えたとしても・・・
それを疑っている『私』がいるということだけは疑えないのではないだろうか!
ほらほらほらほらほら、
その『疑っている私』の存在を疑ったとしても、やっぱり『疑っている私』がいるではないかぁぁぁッッッッ!!!
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
これこそ真理ィィィ!ホントウだぁぁああッッッ!

たとえすべてが夢・幻であっても、その夢をみて、夢じゃないかと疑っている自分が存在することそれ自体は、決して疑えないのである。
幻影をみせる悪霊がいたとて、そもそも幻影をみせられる対象「私」が存在しなければ、幻影をみせようがないじゃないか!
そう、どんな『疑い』にも耐えられるもの。
それは『疑っている自分自身』=『私』だったのだ!

そしてデカルトはかの有名なセリフを残したのだった。

「我思う、ゆえに我あり」

こうしてデカルト先生はついに彼の哲学体系の基盤となる「絶対に疑えない真理」を導き出したのである!

ここからが本番!

さて公理がみつかった!
ここからだ!彼の目指した哲学の体系化がようやく始まる!
彼は自ら導いた公理に基づき思索を進めた!

結果こんな結論を導き出す。

私の存在は確実なのだから、私が明晰に理解したり認識するものも確実に存在する

待て待て待てーぇぇいッッ!
デカルト先生それはいただけない!
そんなこと言ったら、「私」次第で何もかも肯定されてしまう!
共通認識なんてなくなり、それぞれの体系ができてしまう!
それじゃあ、これまでの乱立する哲学と一緒じゃないか!?
貴方の導きたかったものはこんなことではなかったはずだ!!

これまであれほどの懐疑を続けてきたのに、疲れてしまったのか・・・
はたまた、あれだけ苦労した「公理」だから、もはやそれを覆されたくなくなったのか、

なぜ、私の認識が正しいか。それは神様が私をつくったからである。神様がつくったのだから、私の認識はきちんとできているに違いない

とまで言い始めた。
あぁデカルト先生・・・

懐疑、思索という頭の世界に住み続けた結果、プライドとコンプレックスの二分割振子が暴れ、恐怖が生まれた。
その恐怖の中「私」を担保したい自己保存欲求が強まり、「神」という「偶像」にすがるようになってしまったのだ…

そして、それを正当化するように、デカルト先生は、内と外を分離させたデカルト的心身二元論、「私」=「心」とは意識だと考え、物体である身体とは全く別物と「霊肉二元論」を説いた。
「私」「魂」「神」。何物にも影響を受けないアプリオリな存在(完全情報)を認めてしまったのだ。
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頭重心で作り上げた恐怖の中、分離してはならないモノを分離してしまったことに、もはやデカルト先生は気づけない。皮肉なものである。
そこは虚無なのだ。他者を断絶した上、あなたの立ち上げる「私」自体も偶像なのだから。
人っ子一人いない、誰もいない世界なのだ…

だがしかし、デカルト先生のやったことは無駄ではない。それもまた役割である。
彼への批判の中からまた哲学は一歩進歩することとなる。

そう、次世代が現れるのだ…

青コーナーよりヒューム選手の入場です!

デヴィッド・ヒューム。
イギリスの歴史学者であり政治学者であった。
幼き時より才知に富み、なんと12歳で大学に入学。
だがしかし、早熟の天才は拘りが強かった。
哲学以外のことにまったく興味をひかれず、大学を退学。
以後自宅にて哲学の研究に没頭する。
そう、哲学オタクなのだ!

そんな哲学オタクのヒュームの哲学スタイル。それは、
「あらゆるものを疑う」
なんとデカルト先生と同じく懐疑論であった。
しかしデカルト先生とは違う結論に至った!

その違いは何か?
デカルト先生は途中から疑うということに恐怖が混じっていた様子が伺える。
それはもはや猜疑心であり、疑心暗鬼であった。
一方ヒュームは疑いを自らの、そして人類の思い込み(固定点)を外すということに使い続けた。
その疑いは「問い」だったのである!

ヒュームは問うた。

確かに疑う私の存在は確実かもしれない。
だが、そもそもその「私」とはいったい何でしょうか?デカルト先生。
『我思う故に我あり』という言い方だと、まるで「私」が肉体から離れた魂や霊などの精神的実体として存在しているかのように聞こえます。

「自我=心というものの存在」を疑ったのだ!
そして霊肉二元論のような肉体と離れた魂や霊そして私なるものなどない!
ただの偶像に過ぎないと否定にかかった!

元々「私」という存在なんか「様々な知覚(経験)の集まり」に過ぎません。
その肉体を通して、あるときは快適で、あるときは痛いといった次々に現れる知覚(経験)が継続することによって生じている疑似的な感覚に過ぎませんよ

ヒュームはこうした人間の偶像の立ち上げ方についてこう語る。

人間の偶像、つまり想像の産物というものは、すべて「過去の知覚(経験)の組み合わせ」によってつくられている。

そして画期的だったのは「神」という概念についても例外ではないと述べたことだ!

私たちは神様そのものを経験したことはないが、
「自分を見守ってくれる誰か」「絶対に逆らえない支配者」
などの概念であれば、幼児期の親などから経験して知っている。
つまり、人間が思い浮かべる「神」とは、それらが組み合わさってできた概念だと考えることが、十分合理的な話でしょう。

ぐほぉぉう!確かにぃ~

出たぁぁァァぁあああああ!!
元祖神殺しィィィッッッ!!
遂に、遂に神を否定する漢が現れたッッ!
哲学界、いやこれまでの人類のタブーをとうとう打ち破ったのがヒュームという漢ッッ!
元祖神殺しの登場であるッッッ!
「神様なんて人間の経験に由来する観念的な想像物=「偶像」に過ぎないのだ!」
とすっぱ抜いてしまった!

神などという全知全能の存在がないと証明された今、神を持ち出したデカルト先生の認識の正しさの主張は脆くも崩れ去った。

それとともにヒューム選手の勝利が決まったのである。
ということで、勝者は…
「神をも疑う哲学者」ヒューム選手だぁああああっっ!!

ウオォォォォォーーーーーーッッ!!!!!!!(大歓声)
こうして第三回戦は幕を閉じる…

「私」や「神」等といった「偶像」などないのだと気付くこと

今回の哲学バトル。
「偶像」が一つ焦点だった。
それは人の思い込みが勝手に作り上げる産物なのだ。
理想の「私」。人に対する「期待」。こうしたい、ああしたい。
勝手な自分都合(自己解釈)が何もないところ(虚無)から上下対立を生み、
勝手に落ち込み、勝手な渇きを生み出す。
つまり「足りない病」を発症するのです。
そしてその偶像を立ち上げるのは「過去の経験の組み合わせ」でした。

「神」ですら過去の経験が作り出した偶像に過ぎません。
その裏には、「親のような存在に守られたい」「逆らえない絶対的な支配者からの支配=被害者という他責性」といった幼児願望が隠れています。

デカルト先生の場合も、
「こんなに頑張ったのだから、もう否定されたくない。認めてよ!」
という幼児願望が最後の皮肉な結末を導いたことが見て取れます。
最初の目的、志を忘れて...

あぁこの記事を読んでいればデカルト先生も別の結末の世界線に辿り着いていたかも...
↓↓↓

偉人とはいえやはり人間。生々しい人間ドラマがそこにある!

そして次回は・・・

近代哲学で幅を利かせてきた、
懐疑論に待ったをかける漢の登場だッッッ!

第4回戦
「神をも疑う哲学者」
ヒューム
VS
「懐疑を乗り越えた哲学者」
カント

をお送りします。
乞うご期待!!

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