近未来へ向けた下腹重心教育メディア

日本人ならもう一度受けたい授業 礼節の美学『OJIGIΦお辞儀の体育』

蘭丸
WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -
蘭丸

日本人の文化といえば、お辞儀である。

礼に始まり礼に終わる」とは何事にも礼儀が大切であるという意味。

しかし現代では、お辞儀をする機会もなく、美しくお辞儀できる人はなかなかいない。まさに失われてしまった身体文化である。

それは何を指し示しているかというと、あなたの存在を無視していますということ。
人は人によって誰かになれることができるのに誰でもない状況をつくってしまっているというのが今の現状だ。

誰でもない状況をつくってしまった要因をこちらの記事で9回に分けて書いているので、詳しく知りたい方は見てみてくださいね。

明治時代までの日本では礼節をとても大切にしていた。そして畳の上でお辞儀をする際、畳の縁は踏まなないようお辞儀をしなければならない。それは相手へ敬意を払い格式を重んじるためだ。つまり誰かであれていたということだ。

実際に、正座して、美しいお辞儀ができるかチェックしてみてほしい。

手首の強張り

『お辞儀の手首のでしゃばりは、自分の体と他の身体の声の取扱の雑さのシンボル自惚れを牽制するための礼節。右手首のでしゃばり=他者との関係性を取り扱うときに相手の皮膚感覚を無視してGETや利用を無意識にしやすい傾向を現す。左手首のでしゃばり=自分の前頭葉が自分の体との関係性を取り扱うときに、自分の体の声を無意識に無視して雑に乱暴に扱っている傾向を現す』

まさにBODY VOICEを聴き取れないのは、手首の硬さ、出しゃばりが原因である。手首は、慎みをもって相手や自分に「触れる」ために大事な関節。
この手首が硬いと、柔らかく筆のように「触れる」ことができずに「サワッて」しまうことになる。

触覚文明論では、人への触れ方で、文明の成熟度が決まる。戦争経済では、握る(サワル)動作で文明がつくられているゆえに、こんなにも、人に無関心で無知で偽善な社会になっているのだ。

手首を柔らかくたおやかに「触れる」ことのできる人体の扱いを日々意識していくことが、日常の身体との向き合い方である。

まずは、自分への触れ方が雑になっていないかを確認してみてほしい。自分の身体を「触れる」ことができないと、自分以外の「相手」に「触れる」ことはできないよね。

【お辞儀が土下座になっているは過剰自己犠牲のシンボル】

お辞儀するとき、地面と平行でピタッとに頭を下げるのが美しいお辞儀だが、平行より下がっていると、それは過剰な自己犠牲、下から目線のシンボルだ。

【お辞儀が浅い礼になっているは自惚れお陰様感が薄め】

逆に、お辞儀が浅すぎる場合、上から目線である。

【肘と頭が連動しないお辞儀は気持ちと思考の不一致度合い】

美しいお辞儀は、日が沈むように頭を下げていき、日が昇るように頭を上げるお辞儀である。

いかがだっただろうか。

お辞儀は頭を上げることからではなく下げることから始まる。そこにも意図があったんだ。

【なぜお辞儀は下げることから始まるのか】

一見、相手をじ〜っと見ていた方が礼を尽くしている気がする。しかしそうではなく、なぜ相手の目を反らすということが礼節になるのか。それは、伏せるという行為の中には下のものを見るということを表しているんだ。

つまり、常にあなたより下のものがあることを忘れないようにしなさいということ。

私達は常に土とか水とかあらゆるものに支えられて息をしている。

そして、下を見てみるともっと悲惨な叶死見

がある。

ついつい私達は足元ではなく上を見ようとしてしまう。

なのでお辞儀をすることによって、足元には常に支えられていたことがあったと自覚することができるんだ。そして身が引き締まり志が立つようになる。

足元を見てる人、上を見てる人の違いをより深く知りたい方はこちらの記事も見てみよう。

つまり、お辞儀という型でし、その廻っている背景(歴史)を感じながら同時にこれから生み出されようとしているものを全身の肌触りで堪能していくことが礼節である。

なので、その場だけ頭を下げてお辞儀をしている限り礼は尽くせていないんだ。

ただお辞儀をするのか、堪能しながらお辞儀をするのかで、同じお辞儀をしていても全く違ったものになってしまうんだ。

日本人としては一体感と礼節のある美しいお辞儀を、体得したいものだ。

この記事を書いている人 - WRITER -
蘭丸

Copyright© RSELeaks , 2018 All Rights Reserved.