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RSEL寺子屋・響社長が魅せる身体表現『Requiem神楽』とは!? #3

kenta
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アーティストとして活動するうちにRSELeaksにたどり着き、後に伝説となる『地球史Chronicleセミナー』に参加。Master.響に惚れ込んで弟子入りする。

◉ボディフィギュアタイプ
「猫背なでり」の隠れ「くるみ」型

Requiem神楽には振付はない。ダンスではなく教育だからだ。

響社長は頭の世界には何もないことを誰よりも体で知っている。

音楽に居つくわけでもなく音の間を縫った舞を生み出し、表現する。

きっと音楽に携わったことがある方なら尚更、不思議に感じるだろう。音を外しているわけじゃない、ゆっくりなようで早い動き。まるで音の先に行くような感覚なのだ。

これは神楽とは空間把握しているからこそ、生み出されている舞いだからだ。

神楽とは空間把握。空間とは人体そのものなのです。

その人体に時間というストーリーが詰まっていく。そのストーリーを空間で表現しているのが神楽。今までの体への見方、物の見方。すべてが現れる。現在地がどこなのかの体現でもある。

言葉じゃ限界があるけど、舞うことに限界はない。この刹那に感じる空間を五感の互換性によって舞うという表現に変換する。響社長はそれを体現しているのだ。

音よりも早く、音の間を縫った動き。何故だか分からないけど、伝わってくるものがある。

まずはそれを感じてほしい。そして何に惹かれるのかを縁取ってほしい。

反対に振付でデザインされた動きは虚飾にまみれ、自尊心が邪魔をし、固定点を持ってしまったことで不自由になる。これは頭の世界で生きている僕らの日常なのだ。体を育てることには繋がらない。そこを超えていくことでしか本当の教育とならないのだ。

ここまで言葉を並べて色々と書き綴ってきましたが、Requiem神楽を見て舞いを真似することが一番早いというのが正直な話です。

RSEL寺子屋では見取り稽古と呼び、毎日無心になって舞う稽古をしています。何度も伝えているように体感に勝るものはありません。

言葉で伝わる情報量と体感で伝わる情報量とでは雲泥の差があります。

感動したことがない人はいないと思います。本当は体って感じて動くことの連続で止めずに回転し続けているんです。

体を空っぽにするだけで良かった。それなのに頭で自己解釈して余計なことを付け足して止めてしまっている。

常日頃から頭は足りない、足りないと思い込ませてくる。何か足りないから上手くいかない。でも体は何かが足りないのではなくて何かが余計なんだよ。と伝えてくれている。それに気付けないのは感性が鈍くなってしまったからです。

Requiem神楽の注目すべき点は余計なものがないということ、自分がいる感が全くないことなのです。虚飾や自尊心や固定点なんか捨てろと体現しているんです。捨てる勇気を誰よりも持っているから止まってない。止まってないからいつでも舞える。

いきなり舞えと言われてアナタは舞えますか?

体を空っぽにして舞えますか?

こんなの俺だって出来るよ!と自信のある方は是非舞ってみてください

そして撮影して送ってきて頂きたいです。

運動神経に自信がある者、ストリートダンサーなど体に自信がある人ほど痛感すると思います。頭の世界の自分という狭い小さな世界から出れないことを感じ、同じパターンを繰り返すことに気付くはずです。自分がいる感が付きまとい、追いかけてきます。頭だけで動こうとしても動けない。恐怖すら感じるはずです。

デザインに囚われ、虚飾を増やし、自尊心が邪魔をし、固定点を持ってしまったことで不自由を感じることでしょう。頭の思考が先行し体の一念はほど遠く感じます。行為の意味を欲し、体という普遍的な美の存在を忘れてしまう。虚飾にまみれていることの方が楽になってしまう。

その虚飾をはがすための稽古が見取り稽古なのです。

無心に見様見真似することで最初は何もわかりませんが体だけに集中し、動くことで、ただ体で素直に受取り、虚飾が剥がれる瞬間が増えてきます。その時間を増やすことが稽古の本質です。僕らは余計な物が多すぎた。それだけなのです。

見取り稽古とは捨てる稽古でもあります。そして人と組むために舞うのがRequiem神楽。

人と協力して働くことが出来れば、自分の肚からやりたいと思えることができるようになる。つまり協働性が上がらないと自由度は上がらない。Requiem神楽ではそれを体現しているのです。

物の見方と体の動きは比例しています。人と組めないということは物の見方が狭い。だから偏った体の使い方によって体もこわばり動かなくなって不自由を感じる。何もせずにケガや病気になっているわけじゃない。ちゃんと科学としてエビデンスがあるのです。物の見方や体の見方を広げる学びを叡智と呼びます。そして叡智は人体にあり、人体という教科書から習う学びがRequiem神楽。

この学びをそれぞれの持ち場で活かすことで協働性と自由度が上がるのです。

言葉で修正するのではなく、体の動きから教え修正したりすることで新たな創発を生み出す。人体こそが創造や探求を導き出す究極のチャンスをくれる。言論だけでの教育は終わりです。

人体で教育できる人が希少な時代は終わりにしなければいけない。これの教育が当たり前にならないと明るい時代は決してやってこない

響社長しか出来ないんじゃない。全員出来るのに学んでないし体を舐めてたから忘れてできなくなっちゃっただけ。

響社長は誰よりも普通です、まともです。

僕らが人体を劣化させ過ぎてしまったことにいい加減気付こう。けれど僕らがどんなに体を忘れても体は組むことをサボらない。どんなに体に無関心でも心臓に血を送り回転に続けている。固定点なんか持たずに刹那に生き続けている。

体のすべてに機能義務があり無関心な部位はない。機能義務とはつまりはお前の役割果たせよってこと。体は些細な動きでも高速に支え合っている。崩れたところを修復し、止めたと思ったらすぐに動き出し、回ったと思ったら止まって。体は見えないところでも支え合って動き続けている。一切止まらない。創発し続けている。

空にして回転し続けることが創発。頭で考えていては到底追いつけない。

だからRequiem神楽は早い。

Requiem神楽とは体の声の体現でもあるのだ。

それを止めるということは体的には死ぬこと、呼吸が止まることを意味する。でもそれは体の話だけではなく、人間同士でも同じことが言える。一人一人の体に役割はずっとあるのに頭で余計な物を付けたし、別な楽器が羨ましくなってよそ見してしまう。それが自分探しです。でも体と向き合うことから逃げている人には永遠に見つからない。

響社長が以前、稽古中にこんなことをおっしゃっていました。

本当にみんなが天才になるんだよ。

みなさんがどの分野に才能があろうと

凡才で終わる理由は

カラダができてないから。

どの世界も超一流になりたかったら

このカラダを育てるしかないの。

このカラダの出力が皆さんの産み出すものなの。カラダから生産してるの。

カラダの構造がぐちゃぐちゃで

生産されるものは

ろくでもないのに決まっているんだよ。

それぞれの一人一人の天才性を引き出すための21世紀の教育が寺子屋である。

そこにRSEL寺子屋の価値がある。

育てるべきは頭じゃない。

カラダなのだ。

そう、Requiem神楽で伝えてくれています。

頭はデタラメだが体はデタラメじゃない。

カラダは定規とコンパスのようなものです。人との適切な距離を算出し、あらゆる表現を体系化出来る。

その精度を高めるためにすり足、下腹重心、肘締めなどを昔の倭人は体得していた。どこまで行っても頭重心ではなく、下腹重心。人体を持っていない人はいない。全ては体から生み出されるという事実がある。頭ではなくカラダから生み出されたものをRSEL寺子屋ではARTと呼ぶ。

Requiem神楽には怒りも悲しみも喜びも全て詰まっている。

人間らしさが詰まっています。

今はまだオンライン上に公開されているのはほんの一部ですが、オフラインでは日々新しい作品が生まれ今や100作品を超えています。これからも生み出され続けるでしょう。

感じ方がそれぞれ違うからこそ、あらゆる角度から全方位で人体へ届けているのです。だからバカにして見ることだけはやめて下さい。バカにして見るなら始めから見ない方がいい

何度も言うがこれは自己満という狭い世界の話ではない。

Requiem神楽にはどの作品にも誰かに何かが届く一の種が込められている。毎日同じ作品を見ても同じ作品ではないと感じられます。

是非、無性に惹かれる作品を見て舞ってみてください。

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アーティストとして活動するうちにRSELeaksにたどり着き、後に伝説となる『地球史Chronicleセミナー』に参加。Master.響に惚れ込んで弟子入りする。

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「猫背なでり」の隠れ「くるみ」型

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