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言語束縛の罠

 
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高校生シンイチ


昼間はごく普通の高校に通いながら、次世代の文明創造論、叡智を学ぶ日々。「はやく社会に出たいなぁ。」そんな妄想にふけながら、今日も自転車をこぐ!こぐ!漕ぐーー!! 当サイトでは、10代ならではの視点、飾らない想いを自由気ままに執筆してゆきます。

◎ボディフィギュアタイプ
「くるみ猫背なでり」の隠れ「フジポ」型

どうも、高校生シンイチです。

皆さんには、忘れられない音楽の歌詞や自分に信念を与えてくれる偉人や、アニメや映画、本の登場人物の言葉などの座右の銘などといった、好きな「言葉」はありますか?

僕は、最近ではこうして記事を書いたりして生産したりして、自分なりの言葉で文章を書いて表現したりして、少しずつ表現力を育てています。

そうやって今までやってこなかった表現というものをすると、人に鑑賞される作品を作る表現者の凄みと、人の感情や想いを刺激したりする「言葉」というものの力をより一層感じるようになりました。

「言葉」ってなんでしょうか?

凛太朗さんの記事で、「言葉」をテーマにした記事があるのですが、「言葉」とは何かについて、

コトバとは『コトバにできない領域』を指し示すためだけに存在しているもの

とばっさり結論しています。
そう、言葉とは仮に置いている矢印にすぎないのです。
仮においたものを本質と見誤り、思考で概念や言葉をかきまわすことが誤りであることを知ったときが僕にとってのパラダイムシフトだったかな…笑
僕らはただの道具に過ぎないはずの言葉の重要性を過剰に上げ、名称や概念を絶対化しました。
そして、「私」「自分」という僕らが普段当たり前に想定しているものも、心(自我)という仮想空間で思考して言葉や概念で記述した世界において立ち現れる部分情報、固定点にすぎないという衝撃の事実があります。

オンラインでRSELの叡智を学びながら、日常を過ごしていると、やはり名称のようにグリッドで分離されてる構造で生きているなと感じ、機械的だなと思います。

無料で配信されている13本のラヂオのなかの一つ
「#134 マスター響きづいちゃったポヨ⑷ 自己牢獄とは概念の物真似による仕組みと構造 その概念こそ運動と重力を持つという叡知」でも、この言語束縛、言葉酔い問題について話されています。

僕はこの回が、800本以上ある宇宙海賊ラヂオでも、トップ10に入るぐらい好きなラヂオです。(最後にYouTubeの動画が貼ってありますのでこの神回、是非聴いてみてください♪♪)

僕らの人生がこの仮想であるはずの言葉によってほぼ全て決められてしまう(対称性の破れない)というテーマを僕なりに考えてみました。

 

教育で左右される人生

どのような家庭、地域、国に生まれるかは、その人の運命を大きく左右することになることですよね。
人はその中で吸収したした常識や価値観、習慣に基づいて世界を見て行動を選択するようになるからです。

現代の日本という国に生まれる人々と、ジャマイカという国に生まれる人々、また縄文時代に生まれた人々が辿る時間の流れは明らかに違ってくることは当たり前に想像できます。

僕らは、幼い頃から親や、先生などに教育をされ、ある程度成長すると自分でテレビを見たりインターネットを使ったりしたり、本や雑誌などで様々な情報を得るようになったり、他人と話し合ったりしてそれを共有したりするようになりました。

そうして認識を広げることで身につけた「常識」で、善悪を区別する処理方法、つまり分別をつけるようになりました。

物事の概念を広く知ることによって、多くのパターン(因縁果の流れ)を知るようになり、思考や価値観でもって過去を思い出したり、未来を想定して、自分の辿る道を選択するようになったのです。

多くの概念や考えを知った僕らは、大体の世界のことを把握したような気持ちになっているので、思考することにより、この世界でどのように生きるか(どのような運命を辿るのかか)を選択することがほとんどですよね。

つまり、知識を増やし、見聞を深め、世界を縁取れば縁取るほど自己実現の可能性が広がる、ということになりそうです。だから、「情報格差」が問題として起こります。

だいたい、学校で言われてきた勉強の大切さというものはこの理由がもとではないでしょうか。

(そして、どのような「教育」をさせるかによって、ものの見方を統制できるので、利権のなかでも「教育利権」はトップに位置しています。)

つまり、僕らの殆どが間違いなく自分が身につけた概念や観念の中で生きているわけです。

名称によって世界の全てが言葉で記述され、その共通認識を、国から、今ではインターネットによって世界中で共有されます。

道に咲くのが見える「花」(名称)、難しい経済用語、人間や生命にたいする思想も名称や概念で区切られることによって思考を展開することができます。

まだわからない摂理や現象は「未知」という概念をおけるし、歴史上の人々の記録や前時代の価値観や常識も、長い歴史を知り、色々な思想やその時代の文化や流行があることを知っているから俯瞰してそれにレッテルを貼ることができます。

僕らは国や世界の時間の流れの中で未来へ向かって生きる一人の人間として存在すると思っています。

現在の政治、医療、科学、ITなどの様々な分野の発展、国や世界的な問題や、同一化への主義や思想の潮流(LGBTの運動など)、映像作品や書籍、企業の商品の流行などの消費活動、それぞれのコミュニティー(島宇宙)….などが見せる未来への進展において、自分の立ち位置による視点から見て、自分の将来を決めたり、過去の定義、自己の定義をしたりします。

テレビのニュースやネットのニュース、メディアの広告に反応し、それに流れたり、賛成や反対(二分割情報処理)の思考を巡らす。
「メディアで情報を提供する人々」と「その情報を受けとる人」もそれぞれで構造を構成する一つの階層であるため、個人の同意や反対、意見や主張の膿も折り込みずみ(機能の一部)のわけです。

集合無意識において低次であれ高次であれ(明らかに悪だと認識されようと、常識、普通と見なされようと、善と見なされようと)、社会のそれぞれの身分がどのように行動、表現しようと亜空間知能の人々がこの構造を支えている。

 

覚えた常識や概念で自分が構築した人生観に導かれ、生涯社会の流れ(メディアが見せる広告による消費運動や世界情勢)と同調させられ、墓場まで運ばれます。

人々それぞれは一つの「パターン」(記録)に生きていると言えますね。「上下・対立・同一化」というどの時代においても繰り広げられてきたパターンの中。

それは規模の小さな思考から規模の大きな思考まで、過去現在未来というありもしない時間軸の中で因縁果を設定し行為するからです。

人生の長い年数の因縁果の流れのパターンを考えずとも、その決まりきった概念においての思考に基づく観測行為(頭重心)が明らかに予定調和の時間と日々をただ生み出しているというループがあり、そこに美や感謝、叡知の気付きが入り込む隙なんてありません。普遍性のある知恵(叡知)や美は頭の情報空間の概念や言葉には決してないからです。

仮想を仮想として(道具として)扱えなくなってしまっている僕たち。

名称や概念(二念)に居着いてしまって、言葉酔いしてしまったり、言葉の森を散策してしまう僕たちですが、言葉を道具として扱うのって本当にできるのでしょうか。

 

偏見に気づく

僕らは、今まで覚えてきた常識や知識、様々な情報の偏見でいっぱいです。
子供はこうあるべし、男はこうあるべし、女はこうあるべし、人間とはこういうものだ、人生はこうでなくちゃ、親はこうあるべし。金星は灼熱地獄で、エジソンは偉くて、テスラはマッドサイエンティスト。

教育を受けたり、メディアの情報を受けるなかで、それってただの思い込みじゃない?だとか、偽善じゃないの?とかと疑問に思うこともなくなりました。

「自分の頭を使って考えるのが大事だぞ」と大人に言われたこともあったけど、そもそも頭で考えるっていう前提から間違えていたから、個人的な意見や新しいマイスタイルの主張が生まれるだけなんだ。

わかりやすいステレオタイプから、自覚するのが難しい僕らの奴庶民マインド、個人的な思い込みや自己解釈まで、数々の偏見が僕らにはあるのです。

宗教の信者は神を信仰している自覚はあるけれど、僕らにはそのような諸々の一方向的な考えを盲信してしまっている自覚は薄いです。

5歳の頃は頭でっかちな習慣的な考えに縛られておらず、毎日が新鮮な瞬間で、恐怖も薄かったから過去に引っ張られず、未来に対しての期待も願望もなかったから今をありのままに鮮明に繊細に感じることができました。

RSEL式カバラのビナー(静寂性、平常心)という概念(セフィロト)の生き方にも、「後天的に身体的かつ社会的に植えつけられたあらゆる偏見や一方向の言語束縛から解放されるために自分の考えや観測を疑うこと。というものがあります。

自分の観測において偏見がないかをよく観察して抑制された美的感性を少しずつ取り戻したいところですね。

こうきさんのBODY VOICE理論の記事では、「股関節の柔軟性は偏見を持たないで、関わり合える人のバリエーションの豊富さ器量のシンボル」とあるように、偏見が強めの方は股関節が硬くなっているかもしれないですね。

 

重なりを感じること

「私」と「あなた」、「私」と「社会」、「私」と「自然」。

「主観」と「客観」、「科学」と「芸術」、「物質」と「精神」、「個人」と「社会」。

このような、完全な「私」というものと、「あなた」という分離しているものがあると思い込んだり、「主観」と「客観」のようにそれらが相容れないものであり、独立した一つの概念であるといった思考状態が分離してしまっている状態です(二分割情報処理)。そのような、縁起の重なりのない完全独立の静止した点(固定点)は僕らの前頭葉の中にしかない。

 

「でも分離して考えなかったらカオスじゃん。」

 

そう、言葉の形や発音がそれぞれ異なるから文章を読めるし、仮にものに名称をつけるから相関性(物語、因縁果の流れ)を表すことができます。でも、仮想で情報を立ち上げてものを二元的に捉える二分割情報処理、その思考の抽象度をどれだけ上げようと、飽くまでもその計算機能は人間のひとつの機能(道具)に過ぎないのです。

「生命」や「人間存在」を題材にした評論文も、生命の本質なる領域を指し示すための矢印(名称や概念)の展開をあれこれとするものの、物質的な側面(粒)と霊的な側面(波)が同時にあり、完全な粒(揺らがない点)は存在しないという不完全性を、二元的に思考してそれぞれの側面を指す概念を見出し(知性と感性、主観と客観のような)その矛盾に陥るか、回転情報(三位三体)を、二分割情報処理の思考で捉えて説明する限界性とそれによって生まれるパラドックスに陥るか、が殆どであると思います。

物質的(3D)に捉えると「全ては一体である」と言えるが、万物がもともと統合されたもの(ビッグバン理論)で私たちはそこから分離した存在であると考えるといったスピリチュアルのワンネスのような思想の言葉酔いは、絶対神を信仰するのとたいして変わらず、個の役割や機能を軽視したり、間違った平等主義により関係性を平面化したり、それぞれの価値を同一化してしまう、そのような思想はやはり正当化するには値しないと思います。

心臓の細胞でも、手の細胞でも、唇の細胞でもそれぞれの細胞の形や性質は異なるが、すべての細胞が共通の遺伝情報を持ち合わせているようです。

一つの細胞から分化していったのが、様々な形や性質で発現されて人体ができている。たった一つの細胞にも人体という全体が写し込まれていて、人体という全体はひとつひとつの多種多様な細胞の発現が写し込まれているという流動的なフラクタル構造(ホロン)。

(このバイオ的な働きも内的秩序の現れです!)

バイオ的な構造の面だけでなく、自因自果=観測者効果において、対他者との関係性もこれと重なるものなのです。

あなたの中に私があり、私の中にあなたがあり、社会に個人が写し込まれ、個人に社会が写し込まれている(重なっている)。

時空内的秩序の、周囲の万物と協調する事(自分2番観の保持)、周囲の万物を循環させる事(交信、送受信、コミュニケーション)、周囲の万物を改修する事(多様化させ、共栄させること)の協調・循環・改修の三秩序=黄金率に基づき運営されていますが、本来二番目に設定するべき前頭葉、自我フレームで膨れ上がった集合無意識(亜空間知能)による上下・対立・同一化の偽りの秩序(パターン)との重なりへの同期のほうが強くなってしまっている(頭重心)僕ら地球人には、自己XXと五層対XYの重なりを感じる自然な感性は失われています。

ニュースで報道される社会問題や、逮捕される悪人、固いコンクリートの地面とそこを走る自動車昆虫、と自分には重なり(亜空間知能による)があるからこそ表層問題に苦言を呈したり、言葉酔いの意見や主張で対立するし、逆に太陽に照らされた木々や、空を飛ぶ鳥たち、夜空の星々には黄金率の重なりや記憶の重なりを感じることもありません。

万物を自分のように感じる宇宙的友愛、礼節感性を取り戻すにはやはり自我フレームの内向き矢印を少しずつ克服して、五層対を学ぶ以外にはないのです。

そのような包み重なる現実(5D)を感じれる感性を育てれば、きっと「言葉」の扱い方も変わってくると思うし、言葉や概念を先行させる言葉酔いにも囚われなくなり、道具として言葉を使えるようになるのだろうなと思うんです。揺らぎ(5D)は言葉や概念の中にはありませんから。

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