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脱背景無視(脱ランダム)こそ自由への道

 
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高校生シンイチ


昼間はごく普通の高校に通いながら、次世代の文明創造論、叡智を学ぶ日々。「はやく社会に出たいなぁ。」そんな妄想にふけながら、今日も自転車をこぐ!こぐ!漕ぐーー!! 当サイトでは、10代ならではの視点、飾らない想いを自由気ままに執筆してゆきます。

◎ボディフィギュアタイプ
「くるみ猫背なでり」の隠れ「フジポ」型

前回はこちらです!⇒

自ずからの由縁に生きること

僕らは自由の定義を曖昧にしながら自由というものを求めてしまうところがあります。

自由というものを切望していますが、それは一体どういう状態なのでしょうか。

巷で定義されている意味の自由は、

何からも束縛を受けず自分の意のままに欲求のままに振る舞えるこを言います。自分の見たい世界を見れる、なんでも欲求が満たされる。

空間的な制約、物質的な制約を受けず、やりたいことを好きなだけやれる。

五感、精神を好きなだけ満たせる。

まさにVR。気分的欲求=ランダム。

こういうようにわかりやすく欲深いタイプは少ないのでもっと複雑系なのでしょうが(人との関係性を望んでいたり、知の欲求があったり、承認欲求があったり)、空間的・物質的または時間的な束縛を受けない、つまり自由を得たいから僕らはお金を得ようとするわけですので、確かに僕らは自由になりたいと日々思っています。

だから働くことからも自由になりたい人もきっと多いですよね。

しかし僕らはこのことを「自由」だと想定する限り、永遠に「自由」にはなれません。

空間的・物質的または時間的な欲求を叶え続けたいと思っている自分の観測状態にすでに縛られているからです。

人の欲望にはきりがないと言われるのは、どこまでそれを突き詰めてもそれは収束点、つまり納得点が算出されることがないからです。

収束することがないということは、その世界が無限に解放されるということです。

そして、空間的・物質的な苦楽の定義の情報の集積が共通の上下を生み出し、プライドとコンプレックス(対立)を生み出し、擬似的に同一化のピラミッド構造に収束がされます。

そして、時間的な定義(記憶、思い出、トラウマ、成功体験)によって個人的な信念や価値観が生まれそれが人格になり、人格が形成されることになります。

同一化するということは、同じ物語を立ち位置を変えて繰り返し続けるということです。

被害者が加害者にまわり、支配者が被支配者に。

肌の色を変え、目の色を変え、時代を変え、場所を変え…。

この世界仮想現実じゃね?とかと最近になって言われ始めたのは、

「同じこと繰り返してね?これ意味(揺らぎ=対象性の破れ)なくね?」

という理知的なメタ認知や違和感によるものでした。

この同一化された時間に絡めとられると、その中でいかに選択肢を広げられるか、いかに上に上れるか、いかに生き延びられるかという自己保存の無限ループをすることになります。

自己保存とは言いますが、それはただのパターンにすぎないせっま~い自我や恐怖(欲望)による所有を守るという超不自由なことです。

こんなこと時空を越えて繰り返しているとしたら。

しかし、一般的には自己保存のレベルが高いほど自由だという認識なので、当然上下対立が正当化されます。

教科書にも載るマズローの自己実現理論が顕著な例だと思いますが、まさに三位一体の虚無構造を是認した悪魔教です。

こんなことを時空を越えて繰り返してるとしたら。。

ではこれが本当の自由ではないとしたら本当の自由とはなんでしょうか?

それは自ずからの由縁を知ること」。

自分が何者なのかを知ることです。

実は凄く頭の良い東京大学の教授も、国を代表する大統領も、量子物理学で宇宙の謎を解き明かそうとしている科学者も、自分が「なぜ」ここにいて息しているのかはわかっていません。

自分が何者かなんてわかっている人なんて一人もいやしないのです

だけど、頭で論理的に記録を繋ぎ合わせてて辻褄をあわせ、あたかもなぜここにいるのかということをわかった気でいますが、僕らは本当はどこから来てどこへ行くのかという本当の由縁に触れられていると感じられることなんて皆無に近いのです。

僕らは心、精神世界に自分がいるという思い込みをしているので、虚無を見つめ続ける自分探しをしてしまいますし、他者と自分を分ける恐怖と快不快の反応の蓄積によって立ち上がる記録情報の仮面を自分だと思い込んでいるため、幸せになれる「自分」がいるとか、自由になれる「自分」がいるとかと思い続け、生涯納得点(腹落ち)を算出できないままなんとなく生き延びてしまうだけなのです。

背景無視(ランダム)に注意

自ずからの由縁を知ることが自由ということなのですが、どうすればそんなことができるのでしょうか。

それは身体感覚=触覚ベースで生きることを見出す旅路です。

それは、二念を継がず、肚の一念で生きれること。

ごちゃごちゃと何かを探しちゃったり求めちゃったりする落ち着かない頭の二念の将来不安や関係性の恐れや葛藤や、個人や個人の行動に重要性を置いて敵味方をつくったりする無限ループから抜けること。

自ずからのとはいいますが、これは「自分」や「私」という一人称という意味だと思ってしまうところですが、自分のという意味ではありません。

それは、「自然と」さらにいえば「秩序だった」という意味です。

五感の二次反応の集積でつくられる心(観測者)が、作ったものは一切なく、ただそれを包含する内的秩序に生かされているはずが、過剰にでしゃばり、自惚れた心はそこに気づくことはありません。

結局心は、目耳鼻口と触覚(ここでは神経的な衝動のこと)で結果、現象の世界をなぞった結果作られた記録の蓄積にすぎないわけなのですが、内的秩序(触覚=肚)は生きる意味、その目的を算出してくれています。

触覚のみが、目的という背景からの最適解を算出してくれるわけなのですが、僕らは日頃の背景無視の心模様や気分に左右されてしまって一人一時空の本当の物語から外れた行動をいちいちやらされてしまうわけです。

しかし、触覚の目的に集中すれば、五感もそれに向かって束なっていきます。

心模様や気分的な欲求は触覚的な背景からしたら、ただのランダムな背景無視の欲求であるということからも、ランダムなことをし続けることは逆説的に最も不自由なことであることがわかりますね。

そして、亜空間知能(集合無意識)により、根拠のない共同幻想や空気感で同一化され、低解像度な物語を皆で演じさせられることになります。

なので、

・心(観測者)が立ち上がる以前から存在する内的秩序に気づきたい

・「自由」とは触覚で導かれる背景を知り、それに沿った目的のある行動をすること

・心のランダムな欲求や意志や雑念で、僕らは背景に沿った目的から外れたことをして、余計な物語を作りがち

過去からの重なりを否定する背景無視のランダムな欲求を好き放題にできることが自由であると思われているが、逆説的にそれは最も不自由なことである

・いわば背景無視の集合体である亜空間知能により、低解像度な物語に巻きこまれがち

 

秩序だった行動の素晴らしさ

 

言ってしまえば動機や根拠、意味というものは論理的、そして倫理的な合理性に則ったもっともらしさですよね。

動機や根拠を明白にして行動したり、品行方正であったり、律儀であったりと修養されてる人はときに見られますが、よくよく聞いてみると彼らの行為の動機や意味の根本が曖昧であったりする場合が多いですが、

彼らはそれで大いに納得して突き進んでいき、その根本がぐらぐらで無に等しいのにも関わらずすごく精を出してことに励みます。

「私や皆がこれをやる理由」というのは数式みたいなもので、やはり頭での論理的な部分最適によるものなのです。

そのような部分最適のロジックでは、本質的な問いには過去の偉人の格言や有名な言葉をひっぱりだしたりもっともらしい精神論や道徳論が説かれますが、そのような発言をしている人はご多分に漏れず全員既に死んでしまっています。

言葉酔いはすごく上手にできているのですが、「今」から浮いていて機械生物が喋っているような感じに近いので生きている者にとっては発言の全てが意味をもっていないのです。

子供ながらに感じた「これ意味ないわ」とか「つまんない」といったもののほうが本質に近いのです。

なぜなら、「生きている」そのものが意味であるし、今に呼吸を合わして生きているときに現われるあらゆる表現(動作、喋り方、言葉遣い、働き)にしか意味はないからです。

そういった表現は時代を超えていく美しさや潔さや本当の意味での正当性(全体最適)、そこにおいてはあらゆるものがロゴス的であり時代を超えていく永久運動美学が垣間見られるのです。

まさしく、現宇宙の運動原理、カラビヤウ法則6D

「感じ合い、学び合い、教え合い、働き合う」

この運動性を体現していくためには、体の重心が下腹重心(Φポイント)になっていかなければなりません。

ありのままの自分でいいんだということがよく言われますが、頭重心のままありのまま表現をするのはとても問題なことです。

ありのまま=自然体が理に適い、秩序ある働きをするのは人体の重心が自然な位置にないとできません。

だから基本的に僕らの「ありのまま」の観測、選択、連携は歪んでしまっていることを認めなくてはなりませんね。

その結果として、体の各部位のこわばりや歪みがボディボイスとして現われるのです。

だから、自ずからの由縁を知る、自由になるためにはどうしても体育をしなくてはならないということが察していただけましたか?

何の躾けも、慣わしも修養も受け継いでいないなかでも、重心が束なってきたときに自ずと発露される礼節や、関係性の機微や距離感はきっと美しいものなのだろうなと憶いますね。

その「自由」の体現は球体観なる包括的な時空の秩序や背景が重ねられ、そこに言葉による説明はもはや不要で、この体から滲み出てくる球体的な運動性に圧倒的な動機や目的が自ずからついていくのだと憶います…。

僕らの心臓が何に納得して、どのような目的をもって毎日動いてくれているのか。

それは論理的な限界性、言語空間を凌駕し包み込む自然生命科学的な正当性、人体が持つ高度なスペースプログラムだと推理されます。

次回につづく!!⇒低次の二元性から高次の二元性へ 上下対立を越えて…

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