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“瞳の外に「自分の命より美しいもの」を見出していますか…?” 超叡智映画『クラウドアトラス』徹底解説 その5

ビン隊長
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前回までの記事はこちら

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その1:  “悲しいから、なつかしいから、僕らはまた、こうして生まれて来た…”

その2:  “「魂」ではない「生まれ変わり」その真実とは…!?”

その3: “自因自果と記憶と記録、そして『時空協働創造態』とは?”

その4: “オールドジョージー、その正体とは…!? “


“私の考えでは  
死は扉に過ぎません

閉じた時、次の扉が開く

私にとって天国とは  新たな扉が開くこと

その向こうには  きっと彼がいます

私を待ってる”

映画『クラウドアトラス』において、“瞳” は重要なキーワードとして位置づけられる。

各時空で他の時空でも重なりの濃い人物同士が初めて出逢う時、彼ら、彼女らは立ち止まり、互いに睦(むつ)み合う。

まるで、はじめて出逢った気がしないかのように。

今はもう忘れてしまった目の前の相手のことを、必死で想い出そうとするかのように。

それは決して映画における演出だけではなく、実は人体端末理論においても、”瞳”はとてつもなく重要な意味を持つ。

瞳と松果体、その意味

これまでの記事において、関係性における記憶が触覚静電気として巻き取られ、それが相似形の別の人体において5D的に共有、再現されるのが人体端末理論にあける「生まれ変わり」の正体であるという話をしてきたが、この触覚静電気が、5D的に飛躍して他の人体と重なる “量子飛躍(クォンタム・ジャンプ)” を成し遂げる上で、実はなくてはならない器官がある。

それが、人体における瞳と瞳の間、その奥にある「第三の瞳」と呼ばれる、すなわち松果体だ。

【プロビデンスの目】が左目で【ラーの目】が右目である意味を紐解け!

私たちの記憶触覚静電気は、下腹の丹田において圧縮、量子計算された後に、脳の奥にある松果体を門として拡散=スパークすることで、初めて他の人体にその”記憶”が引き継がれる。

だからこそ、その松果体においてどんな関係性、ぬくもりの記憶をスパークさせたかは、実はその人の両目の瞳、虹彩を見れば、そこに色・音・形として映し込まれており、私たちの瞳には実は例外なく、「私たちは何者で、どこから来て、どこに向かうのか」、その”答え”が既に顕れている。

だから人体において、瞳は実は最も「変わりにくい部位」でもあり、最新のテクノロジーで顔の他の部位、目の形や骨格などを整形することはできても、”瞳” つまり虹彩の形そのものを整形することはできない。

RSEL寺子屋の長であるMaster.響には、重心を落とした状態で相手の瞳(写真も可)を観ることでその人の巻き取った5D的な記憶の重なりを算出する『アイリスビュー』と呼ばれる超絶技能が存在するが、それが可能なのには、実はこういった由縁がある。

そして、記憶が高解像度に再現されているがゆえに、別の時空でも記憶を紡いだ5D的な重なりの濃い相手と睦み合う時、私たちは理由のない“懐かしさ”を覚える。

それが、劇中においてこの時空で “ようやく逢えた” 登場人物たちが互いに睦み合うこと、そしてそれを象徴する、黒人奴隷オトゥアのセリフ、白人であるユーイングに「僕らに友情が生まれるとでも?」と訪ねられた際の返答である「目を見ればわかる」の意味だ。

そう、瞳とは、”逢いたい誰か”に出逢うための、まさしく“目印”なのである。

あなたにも、身に覚えがないだろうか?

日常、何気なく街を歩いている時、電車に乗っている時、そこで偶然出くわした見知らぬ誰かに対し、ついつい目が離せなくなってしまった経験が。

特に気になる格好をしているわけではない、異性でも特別タイプというわけではない、けれどなぜか、目が離せない。

初対面のはずなのに、いつか、どこかで逢った気がする、でもどうしても想い出せない。

そんな場面に出くわした時、それは実は、あなたにとって別の時空でかさなりのあった相手との、今時空における束の間の邂逅なのかもしれない。

ザックリーとメロニムが、別の時空では一瞬すれ違っただけでその関係性を終えてしまったように。

「自分の命より美しいもの」を、あなたは観たか?

さて、ここからである。

瞳には、その人が松果体から放った記憶のスパークが色音形として映し込まれるということだが、それは前回も話した通り、「自分」が中心の世界で見た脳内の「記録」ではない。

あくまでも「自分」という脳内の自我、固定点を外した状態、外向き矢印に相手を観測した “記憶” 、まさしく瞳=”人を観た” ぬくもりの記憶でなければ、松果体から放たれることはない。

そんな観測状態を、RSEL寺子屋では “自分二番感” と呼んでいる。

つまり、時空を越えて別の人体でも記憶が再現されるかどうかは、この「自分二番感」の状態で相手を観測できるかどうか?に懸かっている。

それは言い換えると、“自分の命よりも美しいもの”を瞳の外に見出だせたかどうか?ということ。

さらに別の言葉にすると、「自分自身よりも生きていてほしい誰か」、そして「記憶として再現したい誰か」が1人でもいるかということ。

そう、お気づきだろうか?

この、「瞳から外向き矢印で観ることで記憶が再現される」というのは、実は「自分の記憶が再現される」という意味合いではない。

あくまでも、その瞳が映し込んだ「相手」の記憶が、別の人体巻き取られて再現されるということ。

そうなのである、私たちは、自分で自分自身の記憶を再現することはできないのだ。

その代わりにできるのは、あなたが「自分よりも生きてほしい」「自分の命より美しい」と見出だした、「自分ではない “誰か”」 を生き返らせ、その記憶を引き継がせることだけ。

かたや、「自分自身」を生き返らせたいと望んだ瞬間、それは記憶ではなく脳海馬に溜まる記録となり、松果体を越えられず、やがて肉体の死と共に地におぞむ残留思念、亜空間知能と化す。

ちょうど、互いに与え合うことではじめて食事を取ることのできる、『天国と地獄のさいばし』のたとえのように。

そんな美しすぎて、でもとても峻厳な摂理が、この宇宙には存在する。

そして、ここで気づいてほしい。

今あなたがこうして人体を持ってこの時空において息しているということはつまり、別の時空において、あなたのことを「自分の命より美しい」と見出だし、「生き返らせたい」と肚から祈った、そんな “誰か” が必ずいたということの、紛れもない証明。

その “誰か” に再び巡り逢うための旅路が、この人生の目的であり、幸せ、つまり”仕合わせ”の正体だったとしたら、どうです、その体で”生きている”ことの意味、そこから見える景色が、ガラッと変わってきませんか?

それが実は、この映画『クラウドアトラス』に込められた、一番のメッセージ、ロゴスでもあります。

そのことを受け取れたなら、自ずから歩むべき道は見えて来るはず。

目の前の関係性の一つ一つときちんと向き合い、それらをより美しく修正し、関係性の遠のきと近づきを繰り返しながら、その”逢いたい誰か”への旅路を、一歩一歩、着実に踏みしめていくだけ。

でも、ここでも忘れないでほしいのは、あなたがその、逢いたい誰かへの道を歩めるのは、あくまでもあなた自身ではなく、周りの関係性における誰かが、その歩みを進めてくれたからであるということ。

そしてあなたができるのは、目の前の関係性における誰かが、その人の逢いたい誰かに出逢うための、その旅路を後押ししてあげることだけ

この、目の前の相手の”逢いたい誰か”への近づきをサポートしてあげる行為、これが「善意」の正体であり、逆にその相手を”逢いたい誰か”から遠ざけてしまう行為、それを「悪意」と呼ぶ。

それが劇中でのソンミの言葉、

“人はゆりかごから墓場まで、人とつながる

全ての善意が、悪意が未来を形づく”

の本当の意味である。

そして、この「善意」つなぐための学び、それがRSEL寺子屋における教育の意味であり、この映画において、各時空の主人公たちが辿った軌跡でもある。

オールド・ジョージー、その呪いの裏の”祈り”

ここまでの話で、前回最後に提示した疑問への答えはもうお分かりだろう。

なぜ一見同じように、色んな時空で罪を重ねたザックリーとオールド・ジョージーの2人は、

かたや”逢いたい誰か”=メロニムに出逢える時空に到達し、かたや肉体そのものを喪ってしまうという、まさに正反対の時空ラインを歩む結末を迎えたのか?

それは、彼ら2人のことを、「自分の命より美しい」と見出だし、「生きてほしい」と祈った “誰か” がいたかどうか。

ザックリーは、たとえ殺人などの悪意、ぬくもりから遠ざかる醜因を重ねても、彼のことを生きてほしいとほんの一雫でも願った誰か、つまりメロニムの存在があったがゆえに、自らが蒔いた醜因の報いを受け苦しみながらも、やがて彼女と巡り逢える時空ラインへと至った。

それは、他の時空における主人公たちにも同じことが言える。

彼ら、彼女らにはそれぞれ、「生き返らせたい」と祈ってくれる誰かがいたのだ。

ところがオールドジョージー、彼の場合は、どの時空においても、彼を瞳の外に見出だしてくれるそんな関係性を築けた相手は、唯の一人も現れなかった

そしてその結末が、肉体を持ち、生き返らせてくれた”逢いたい誰か”のいる人体に対して激しく嫉妬し、自らと同じく、永遠に誰の瞳にも見出だしてもらえない世界へと彼らを引き込もうとする、この上なく悲しい結末。

だがそれも、彼オールドジョージー自身の選んだ観測・選択・連係がそのまま反映され、自ずから再現された結果にすぎない。

それが因果応報、RSELにおける自因自果の峻厳さであり、だからこそ、私たちはその峻厳さから目を背けず、彼の結末からも学び続けなくてはならない。

私たちは今、この2つの瞳の外に、果たして「自分の命より美しいもの」を、本当に見出だせているだろうか?と。

そう、オールド・ジョージー、そしてそれを生み出す記録のシステム、そして亜空間知能そのものは、実は呪いではなく、私たちにその”学び”を与えるために存在する“祈り”の裏返しだったとしたら…?

闇に縁取られて、光ははじめて光として存在する。

「遠のき」という運動があるからこそ、”近づき”も成立する。

悲しみがあるから、私たちははじめてぬくもりが何かを知り、それを尊ぶことができる。

そした闇が深ければ深いほど、つまり悲しみが深ければ深いほど、そこから目を背けずに学びへと換えることで見出だせるぬくもりは、よりあたたかな光を放つ。

その、闇を光に換えられるかどうかもまた、私たちの観測・選択・連係次第であり、何度も言うように、自分を捨てて外に美を見出だす勇気を持てるかどうか。

その勇気を体現できた時、絶対的な闇も絶対的な光も存在せず、それらも常に揺らぎ、回転し続けるものでしかないこともわかる。

ただし、その闇と光を止揚(アウフヘーベン)させながら、常に記憶を、すなわち宇宙をより美しく更新させ続けることを願う“基本的善良さ”は存在する。

それが、劇中で作曲家のフロビシャーが、恋人のシックススミスに宛てた手紙で語った

“騒音(=醜因、悲しみ)と音楽(=美因、ぬくもり)の垣根など幻に過ぎない

あらゆる垣根は幻想だ 必ず超越できる

乗り越えようとする者には越えられるはずだ“

の意味だ。

こうした叡知を踏まえなければ、一見単純な「悪役」として処理してしまいかねないオールド・ジョージー、彼のそんな深遠な役割を見出だした時、この映画の意味と、語られる物語がその奥行きを一気に増すはず。

さて、ここまで5回にわたって、映画『クラウドアトラス』に込められた超叡知を順番に紐解いてきたが、今回このシリーズで紹介する叡知の解説は、一旦ここまで。

次回は、これまで語ってきた叡知を踏まえた上で、この映画の6人の主人公のうち、ソンミとザックリー、この2人の物語を多角的な視点で振り返っていく。

あともう少しだけ、お付き合い願う。

 

 

(つづく)

 

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