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映画「美しき緑の星」が発禁になった【切断の真意】とは?!

 
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キャッスル

こんにちは、キャッスルです。

今回は「美しき緑の星」の凛太朗さんレビュー動画をご紹介しますね。

 

「美しき緑の星」は、20年くらい前にフランスで作られた映画です。
実は結構有名な俳優も出ている映画で、
2回くらいテレビで放映されたこともあるみたいなんですけど、
この世の中から葬り去られて発禁となっている、と曰くつきの映画だったりします。

ストーリーをざっと見ていない人のためにお話しすると、
地球とは別の惑星に僕らのような人間が住んでいるという設定になっています。

「彼ら」、いわゆる「宇宙人」の暮らしというのは、
地球の社会文明とはまったく違うものなんですね。

まず一つ言えるのは、貨幣制度がないことです。
全く違う暮らしをしている別の惑星の人たち、
その人たちというのは地球よりもずっと文明の進んだ暮らしをしているんです。

で、彼らは惑星間の移動も、すでに出来るようになっているので、
そこでは僕らでいう海外出張みたいな感じで、
惑星に出張したり、惑星に派遣されたりするんですよ。

映画の序盤では、誰がどこの惑星へ行こうか決めるところが描かれているんですけど、
「誰が、なんとか星に行きたい人〜?」みたいな話をしていると、
なんと地球に行きたい人が一人もいないんです。

彼らの中では、地球というのは野蛮な民族が暮らしをしている惑星だというイメージで、、、

そこで、一人の女性が「まあ、行ってもいいですよ。」と手を上げる、
そして地球に送り出されていくというストーリーになっています。

そこで、全く違った価値観というか、地球の常識社会というものに
その宇宙人の女性が色々とビックリする様を、コミカルに面白おかしく描いた映画です。

僕らが当たり前だと思うことが彼らから見たら異常というか、
「なんでそういうことするの?」みたいな、信じられないことが多々あるんですよ。

プラネットギャップみたいな、
それがなんかすごく気づかされるというか、面白い視点だなという映画なんですけどね。

まずこの映画の一番最初の出だしというか、
どんな始まりだったかを実際に映画を観たことのある人は
もう一回思い出してほしいんですけど、実は「目」から始まるんですよ。

いろんな動物の目が描き出されるところから、この映画はスタートするんです。

この瞳というのは、宇宙経済的にも人体端末理論的にも重要というか、
瞳はその人の記憶、過去の記憶というものが蓄積される場所です。脳海馬とは別の記憶のことですね。

記憶には2種類あるという話を宇宙経済学ではしているんですが、
脳海馬からつながる亜空間知能をベースとした記憶ではなく、
本当の自分の記憶、関係性主体の記憶、自分らしい肌触りから導き出される記憶というものが、
視床下部の中の松果体という部位で映像処理されているんです。

そしてこの松果体の輝きというものが、なんと瞳に反映するんですね。

だから、「瞳を見ればわかる。」とクラウドアトラスの映画でもありましたけど、
「なぜ、俺に助けを求めたんだ?」という問いに対して、
「友達だから、目を見ればわかる。」と助けられた奴隷が言ったのも同じ理由です。

人体の中で唯一整形ができない瞳というものに、
隠しきれないその人の過去=記憶というものが蓄積されるということなんですね。

だから、本当に冷たい目をしている人とか、
自分大好き人間の目っていうのは共通してくる、似てくるんです。

爬虫類の目とか蛇の目とかって、温度がないというか冷たい感じがするじゃないですか。

それが哺乳類とか人間に進化してゆくにつれて、
他者との関係性を算出するようになってきて、瞳に輝きが映り込むんですね。

だから口ではいいことを言ってたりとか、笑ってても目が笑ってないとか、
瞳からその人を算出するということもこの宇宙経済学、人体端末理論においては重要なトピックになるので、
そこがこの映画のオープニングで描かれていたというのも興味深いなと思いました。

一番最初の、別の惑星の地球に誰が派遣されるかという会議では、
みんな自分の得意なこと、自分の資質を活かしたコンテンツメイキング、
その才能を持ち寄って持ちつ持たれつ、お互い様の関係性で成り立っている社会が表現されています。

これが真の時空協働創造態というか、まさに目指しているアナザフロンティアの姿そのものなんですね。

そこではみんな自己解析もせずにただ権利収入を追ったりとか、っていう必要もないんです。

そもそも貨幣制度もないんですけど、要は自分の肌に合っていないことをさせられたり、
しなきゃいけない、そういうのはないんです。できないことは、できる人に頼る。
まさにワンピース、麦わらの一味のような、それが大きくなったような社会が実現しているんです。

そして結局、先の女性が地球に派遣されるんですけど、地球に行くと危ないんで、
野蛮な人たちが沢山いる星だから、一つ「切断する力」を持っていくんですね。

何か困った時は切断すれば、、。

地球の人たち、切断されると急に木に抱きついちゃったりとか、靴を脱ぎ捨てたりとか、
急に奥さんに花を買ってったりとか、テレビをいきなり捨てたりとかしちゃうんですよ。

「切断」っていう言葉は意味深な翻訳じゃないですか。
いわゆる自我フレームとの切断、亜空間知能との切断を意味しているんですね。

脳海馬から前頭葉にリンクしている、形成されている自我フレームを切断して、
松果体ベースの自分の本当の肌触り(子供心というもの)を取り戻すというのが切断の意味なんですけど、
だから急に子供に返ったような感じになっちゃうんですよ、切断された人たちは。

あとは「交換」っていうキーワードが出てきますけど、先の女性が添加物だらけの物しか地球にないから、
食べるものがないんですが、子供との「交換」をすると、しばらく何も食べなくても大丈夫なんです。
これもなんか意味深な表現じゃないですか。
いわゆる子供とのバイオフォトンの交換を意味してるんですよ。

宇宙経済学でお伝えしてきた内容と結構リンクしている、
重なっている映画だなという部分が沢山ありました。

例えば、派遣された女性の息子たちも後から来るんですけど、全然別の場所に来ちゃうんです。
先の女性はフランスに派遣されてるんですけど、全然違う国なんですね。そしたら、そこで先住民族と会うんです。
ミュータントメッセージという僕の大好きな本があるんですけど、アボリジニの生活を描いた本なんですね。
それを見るとわかるんですけど、先住民族というのは、
まさに派遣されてきた別の惑星の人たちと同じような生活スタイルなんです。
とてもテレパッシックな感性を持ちながら、
自分たちの才能を交換しながら成り立っているコミュニティを形成している人たちで。

フランスでも、足を水に浸けて情報を感受している。これは地球=惑星との接続なんです。
不思議なことに、日本にも「足を洗う」っていう言葉があるように、
昔の日本人には、家に帰ってきたら足だけお水に浸けて洗うという習慣があったんですね。
諸説色々その理由は言われていますけど、フランスにこの習慣はないんです、日本だけなんです。
これも、なんででしょうかね、というところも奥深いところです。

一見、見過ごしがちなちょっとしたシーンに意味深なカットが多々隠されている映画なんで、
一回観ただけだとそこまでは読み解けないんですよ。
なんか知らないけど葉っぱを見つめてしまうシーンなんかも、黄金比で内的秩序そのもの。
この世に完全情報となるものは一つも存在しない。
全ては算出法=計算式そのもの、それがバイオフォトン(同期並行計算機能)そのものなんですね。
木々の葉っぱのつき方や葉脈の形、流れ方そのものに現れている黄金比なんですよ。
そういったものが一瞬だけさっと出たりとか、わかりにくいっちゃぁわかりにくいですけど、深い映画だなと。

最後に先の女性も元の惑星に戻っていくんですけど、地球に派遣された時にいろんな音楽を聴いたりとか、
CDショップにも行くんですけど、そこではCDに手をかざすだけで音楽が聴けるんです。
一緒に同行した地球の男の人も、僕もやりたいと手をかざすんですが、
これはまさに物理同期と時間同期のうちの、時間同期を意味しているんですね。
物体というものに流れる時間、過去の歴史そのものを情報処理して認識する時間同期自体を描いている、
これがサイコメトリーの本質でもあるんですね。

バッハも彼らの中で派遣された人らしいですけど 、イエスも派遣された人らしいですよ。
いろんな音楽を聞くんですけど、結局彼らの社会の中ではロックミュージックとかはなくて、
彼らは静寂を好むというのも深いところで。

最後はみんなで静寂の儀式みたいな、ただ静かに何もしないで静寂をただ見つめるということを
やっているところが描かれて終わっていくんですけど、あれは彼らの切断式みたいなものです。

別の惑星、地球とはレベルが違うコミュニティを形成している彼らでさえも、
自我がないということではないんです。自我はあるんです。
自我は絶対悪ではなくて、生きるために必要なものでもあるんですね。
ただ自我フレームがでしゃばりすぎる時には、それを静寂の儀式で抑えるんです。
それが0ポイント、中庸に立った状態。一切の差をとった状態、差取りの状態。
上下対立を生み出す分離のない世界、関係性の記憶のみで成立している世界にもう一度戻る。
個というものに囚われない状態ですね。

いろんなところで、面白い描写がされていて、
ただなんとなく見るだけでも感化される部分は多い凄く良い映画だと思います。

ただ注意してほしいのは、あくまで映画というフレームの中で、
現代人にもわかるような表現で描写されているので、誤読したり誤解しやすい部分もあるということです。
これはキリスト教とか仏教でもそうですし、真理に近いことを仮に教えていたとしても、
それをどう理解するかによって全然違うものになっちゃうんです。
よく伝言ゲームで最終的に全然違うものに伝わっちゃうのと一緒で、仏教やキリスト教も誤読の連続なんです。
この映画も、わかりにくいというか、表現の仕方があくまで映画の中でされているので、
そこを変に極端に捉えすぎないでほしいなと思いますし、注意してほしいんですね。

ちなみにこの映画を見ると「切断されてしまう」ということで、
上の権力者の支配階級の人たちが葬り去ったんではないかという説とか、いろいろ言われてるんですよ。
ただ勿論、この映画をただ見るだけでは切断されることはないですからね。

この映像を見て、ただ感化されたりとか、なんとなく観るんじゃなくて、
実際に明日からの生活の中に取り入れられる具体的なヒントや学びをどう見出すかだと思うんです。

そう、「ただ愛だよね」とか、「ただお金じゃないよね」という言葉に完結しちゃうのも違うんですよ。
地球においては、それじゃ無理なんですよ。ただ人類愛を説くだけでも、、。

こうした世界観が素晴らしいことはもちろんで、
この世界観をちゃんとこの地球のテクノロジーや経済とうまく共存させながら、
うまくデュアルに結びつけながら違う経済圏に少しづつフェイドアウトしていく、シフトしていくしかない。

極論は危険なんです。
極論は大体上手くいかないんです。

最後に、現代人にとっては本当に大切なことや忘れていたこと、
そしてヒントとなる部分もうまく映画として面白おかしく描写してくれているので、
そこはフラットな気持ちで観てもらえれば面白いんじゃないかなと思います。

 

 

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